カタクリ色の恋噺

 日曜は家事や家の用事を済ませて、その後ぼんやりと過ごしてしまった。昼寝をするつもりだったのに、上手く眠れなくて怠い身体のまま夜を迎えてしまう。
 テレビにも興味が湧かなくて、結局簡単な食事とシャワーを済ませてベッドに入った。疲れているのに、彦音の言葉が引っ掛かって夜中に何度も目が覚めてしまう。
 長く生きてきた彼の言葉はきっと間違っていない。よく新太のことを知ってもいる。それでもやはり、素直に言うことを聞く気にはなれなかった。
 新太が好きで傍にいたい。その気持ちが今の慈の生きる糧だ。それがなくなってしまえば、自分は死んでいるのも同然なのだ。どんな扱いでも、他人にどう思われてもいい。想って、想って寝返りを打つことを繰り返して、明け方漸く眠気に襲われる。
 浅い眠りの中で、新太と初めて話したバス停の夢を見た。バス停の裏側にはカタクリ畑が広がっていて、一面に薄紫色の花が咲いている。もっとよく見たくて近づこうとしたところで、誰かに呼ばれて顔を向ける。
『慈』
 振り向いて見たものに目を見張った。新太がカタクリの花と同じ色の着物に袴を着けた姿で笑っている。とても綺麗で、自分が好きな色の着物を着てくれていることが嬉しくて、慈は彼に駆け寄る。
『いい色ですね』
『うん。慈が好きだと思って』
 その言葉が嬉しくて、胸が一杯で話せなくなる。
『ねぇ、慈。また急な仕事を頼んでもいいかな?』
 落語の会場に戻るのか、彼が歩き出してしまった。もう少しカタクリ畑を見ていたかったが、自分のために彼の時間を使ってはいけない気がして、慈も振り向かずに隣を歩いていく。
『なんでも言ってください。新太さんのためならどんなことでもしますから』
 本心から言えば新太が足を止めた。そうしていつかと同じように、袂から取り出した和菓子を差し出してくる。
『嬉しいな』
 言葉と一緒に新太が笑う。だがいつもと違って、それが口の端が上がった不気味な顔に変わる。
『慈は、お菓子で動いてくれるから』
「……!!」
 そこで一度に覚醒した。夢だというのに、恐ろしくて息が上がって、胸を押さえたまま動けなくなってしまう。
 違う。あれは落語の演目で新太が見せた表情だ。策略家の男がにやりと笑うシーンがあって、そのシーンが印象に残っていただけだ。新太が得意な演目だから何度も観ていて、たまたま夢に出てきただけだ。決して、新太が慈に向けた顔ではない。
 そう自分に言い聞かせながら、仕事にいく支度を始める。寝不足のせいか全く食欲は湧かなくて、ミネラルウォーターだけ口にして病院に向かった。ルーティーンを熟していれば気持ちも少し落ち着いて、仕事仲間ともいつも通り言葉を交わすことができる。
 それでも無意識に気は張っていたらしい。仕事が終わったあとどっと疲れが出て、スーパーにも寄らずに部屋に帰った。ドアを開けて入った途端に何もかもが億劫になって、手を使わずにスニーカーを脱ごうとする。だが上手くいかずに足がもつれた。
「……っ!」
 転ぶと思ったときには遅かった。玄関に前から倒れて、手から離れた鞄が飛んでいく。反射的に正面から顔をぶつけるのを避けようとして、床にこめかみを打ってしまった。擦るような形になって、転倒の衝撃が去った後、ヒリヒリと痛みがやってくる。
「痛……」
 血が出ているかなと思った。目を遣れば、前に飛んだ鞄から中身が飛び散っている。片付けなければならない。それから傷を確認して、手を洗って消毒液を探して。考えれば何もかも面倒になった。いつものように、真夏でも玄関と廊下は涼しくて、倒れていても然程苦ではない。
 疲れた。少し眠ろう。自分が怪我をしても、新太に迷惑が掛かることはないからそれでいい。昨日と一昨日よく眠れなかったことが嘘のように、おかしな場所でおかしな格好で意識を落としてしまう。
「──慈! 慈!」
 酷く慌てた声に起こされたときには、既に夜になっていた。玄関の明かりが点いて、昼のまま散らばった鞄の中身が目に映る。
「……快人さん?」
 覚醒しきらない頭で、呑気な声が出てしまった。膝立ちで慈の身体を抱くようにしていた彼の顔に怒りが湧く。
「玄関で血を流して寝ているって、どういうことだ! お前はどれだけ俺に心配させれば気が済むんだ!」
「……ごめん」
 なんの反論もないから詫びれば、拍子抜けしたように快人がため息を吐いた。
「来い。手当する」
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