カタクリ色の恋噺
気難しい人間だったらどうしようと不安もあった甘茶蔓彦音は、少し話しただけで分かる人格者だった。ゆっくり静かに言葉を紡ぎ、ただの手伝いの慈にも丁寧に接してくれる。
「看護師さんか。それは立派な職業だ」
「ありがとうございます。病院で働いている訳ではないので、できないことも多いんですけど」
「いやいや。今日は頼りにしているからね」
今年七六歳になり、過去に叙勲されたこともあるというのに、驕りのようなものは全く感じられない。
午前中にスタッフの車で迎えに行き、ホテルの控室で血圧を測りながら雑談をした。そのうち新太も挨拶に来て、軽く収録の打ち合わせをする。師匠の師匠だから積もる話もあるだろうと、慈は一度部屋を出た。その間に収録の準備は問題なく進み、新太と彦音がスタジオに入る。
トラブルがない限りスタジオに入って収録を見ることは控えていた。収録中は慈にできることはないので、控室の片付けをしたり、彦音の資料を読み直したりして終わりを待つ。彦音が体調を崩すようなこともなく収録は二時間程で終わった。
「新太さん、彦音師匠と食事に出ることになったらしいですよ。スタッフのみなさんもどうぞって言われたんですけど、浅井さんはどうします?」
帰りも彦音を送る車に同乗するつもりでいて、片付けの途中でやってきた水上に聞かれた。
「俺は先に帰ります。テレビ局の人間でもないのに申し訳ないですから」
「いや、そんなの関係ないでしょ。いいものを食べられるのにもったいない」
そう水上に引き止められたが、やはり慈は帰ることにした。自分は局の人間ではなく、あくまでも新太の手伝いの人間だ。あまりでしゃばるような真似はしない方がいい。新太が残れと言ってくれれば別だが、彼は彦音をもてなすことで忙しそうだ。
水上の手伝いをしながら片付けが終わるまでいて、全て撤収した後、スタッフのリーダーに挨拶をして現場を離れた。荷物を置いてある隣室に寄って、大きな鞄を提げてエントランスに向かう。
「ああ、看護師さん、浅井さん、待ってくれ」
そこで何故か彦音に呼び止められた。着物姿で走ってこようとするから、慈の方が慌てて彼の傍に戻る。
「どうかしましたか?」
「いや。あんたに言っておきたいことがあって」
そう言うと、後ろで様子を窺う新太から見えない位置に手招きされた。エントランス横の大きな花瓶の陰に隠れて、彦音がまっすぐ慈の顔を見る。
「あんたはまだ若い。自分の人生を大事にした方がいい」
「え?」
初め、何を言われているのか分からなかった。
「新太に聞いたよ。番組の手伝いだけじゃなく、家のことまでしてやっているんだろう? それもほぼ無給でな」
「俺が好きでやっていることですので、問題は……」
「あんたのようなまっすぐな人間には、幸せになってほしいんだよ」
笑って話を終えようとした慈に彦音が重ねて言う。高齢になって以前より身体は小さくなっただろう。だがそれでもまだ慈より少し長身の彼が、ほとんど同じ視線から慈に訴えてくる。
「新太はいい奴だが、少し浮世離れしている」
同じ一門で新太を見てきた彼が言う言葉には重みがあった。
「普通の人間が傍にいれば傷つくこともあるだろう。そうなったときに、あんたの周りには何も残らない」
決して咎める口調ではなかった。それでも隠していた部分を的確に突かれたようで、胸に嫌な痛みが走る。
「ああ、すまない。私も偉そうなことを言えた人間ではないんだがね」
「いえ」
困ってどうしようもない顔をしてしまっていたのだろう。彦音が表情を和らげてくれる。
「ゆっくりでいい。少しずつ新太以外に好きなものを見つけていくといい。案外、大事なものがすぐ傍に転がっていたりするもんだから」
上手く答えられなくて、曖昧に笑って頷いた。だが自分のために言ってくれたことはありがたくて、普通ならこうして話などできない立場の彼に頭を下げる。
「あんたとの世間話は楽しかったよ。また機会があれば茶飲み話をしよう」
そう言って、新太の傍に戻っていく彦音の後ろ姿を見ていた。振り向いた新太と目が合えば、彼が笑って手を振ってくれる。いつもの優しい顔だが、収録の手伝いを終えて帰京する慈に、何か別の言葉をくれることはない。それが彦音の言う『浮世離れ』なのだろう。
こちらも短く手を振り返して、今度こそエントランスを出た。まっすぐ駅に向かって、スマホで一番早い新幹線の時間を調べる。せっかく名古屋まで来たが、やはり自分には見たいものも食べたいものもない。
次の新幹線が二十分後で、仕方がないから待合室の傍のお土産売場に入った。いつも世話になっている快人に何か買っていこうと思って、無難なお菓子の箱を一つ買う。そういえば、先週の京都のときにはお土産など考えもしなかった。
荷物とお土産の紙袋を提げて新幹線に乗った。半端な時間だから空いていて、窓際の席で外を見ながら東京に戻る。窓の外には晴れた空が広がっていたが、その奥に灰色の雲が僅かに覗いていた。これからその雲が広がって雷雨になるかもしれない。そうなれば、存分に食事を楽しむつもりの新太たちが困ってしまう。
雨雲が散って空が晴れ渡りますように。新太が彦音と楽しめますように。また来週も新太と会えますように。
少し疲れて背凭れに身体を預けて、誰にだか分からない願いごとをしていた。
「看護師さんか。それは立派な職業だ」
「ありがとうございます。病院で働いている訳ではないので、できないことも多いんですけど」
「いやいや。今日は頼りにしているからね」
今年七六歳になり、過去に叙勲されたこともあるというのに、驕りのようなものは全く感じられない。
午前中にスタッフの車で迎えに行き、ホテルの控室で血圧を測りながら雑談をした。そのうち新太も挨拶に来て、軽く収録の打ち合わせをする。師匠の師匠だから積もる話もあるだろうと、慈は一度部屋を出た。その間に収録の準備は問題なく進み、新太と彦音がスタジオに入る。
トラブルがない限りスタジオに入って収録を見ることは控えていた。収録中は慈にできることはないので、控室の片付けをしたり、彦音の資料を読み直したりして終わりを待つ。彦音が体調を崩すようなこともなく収録は二時間程で終わった。
「新太さん、彦音師匠と食事に出ることになったらしいですよ。スタッフのみなさんもどうぞって言われたんですけど、浅井さんはどうします?」
帰りも彦音を送る車に同乗するつもりでいて、片付けの途中でやってきた水上に聞かれた。
「俺は先に帰ります。テレビ局の人間でもないのに申し訳ないですから」
「いや、そんなの関係ないでしょ。いいものを食べられるのにもったいない」
そう水上に引き止められたが、やはり慈は帰ることにした。自分は局の人間ではなく、あくまでも新太の手伝いの人間だ。あまりでしゃばるような真似はしない方がいい。新太が残れと言ってくれれば別だが、彼は彦音をもてなすことで忙しそうだ。
水上の手伝いをしながら片付けが終わるまでいて、全て撤収した後、スタッフのリーダーに挨拶をして現場を離れた。荷物を置いてある隣室に寄って、大きな鞄を提げてエントランスに向かう。
「ああ、看護師さん、浅井さん、待ってくれ」
そこで何故か彦音に呼び止められた。着物姿で走ってこようとするから、慈の方が慌てて彼の傍に戻る。
「どうかしましたか?」
「いや。あんたに言っておきたいことがあって」
そう言うと、後ろで様子を窺う新太から見えない位置に手招きされた。エントランス横の大きな花瓶の陰に隠れて、彦音がまっすぐ慈の顔を見る。
「あんたはまだ若い。自分の人生を大事にした方がいい」
「え?」
初め、何を言われているのか分からなかった。
「新太に聞いたよ。番組の手伝いだけじゃなく、家のことまでしてやっているんだろう? それもほぼ無給でな」
「俺が好きでやっていることですので、問題は……」
「あんたのようなまっすぐな人間には、幸せになってほしいんだよ」
笑って話を終えようとした慈に彦音が重ねて言う。高齢になって以前より身体は小さくなっただろう。だがそれでもまだ慈より少し長身の彼が、ほとんど同じ視線から慈に訴えてくる。
「新太はいい奴だが、少し浮世離れしている」
同じ一門で新太を見てきた彼が言う言葉には重みがあった。
「普通の人間が傍にいれば傷つくこともあるだろう。そうなったときに、あんたの周りには何も残らない」
決して咎める口調ではなかった。それでも隠していた部分を的確に突かれたようで、胸に嫌な痛みが走る。
「ああ、すまない。私も偉そうなことを言えた人間ではないんだがね」
「いえ」
困ってどうしようもない顔をしてしまっていたのだろう。彦音が表情を和らげてくれる。
「ゆっくりでいい。少しずつ新太以外に好きなものを見つけていくといい。案外、大事なものがすぐ傍に転がっていたりするもんだから」
上手く答えられなくて、曖昧に笑って頷いた。だが自分のために言ってくれたことはありがたくて、普通ならこうして話などできない立場の彼に頭を下げる。
「あんたとの世間話は楽しかったよ。また機会があれば茶飲み話をしよう」
そう言って、新太の傍に戻っていく彦音の後ろ姿を見ていた。振り向いた新太と目が合えば、彼が笑って手を振ってくれる。いつもの優しい顔だが、収録の手伝いを終えて帰京する慈に、何か別の言葉をくれることはない。それが彦音の言う『浮世離れ』なのだろう。
こちらも短く手を振り返して、今度こそエントランスを出た。まっすぐ駅に向かって、スマホで一番早い新幹線の時間を調べる。せっかく名古屋まで来たが、やはり自分には見たいものも食べたいものもない。
次の新幹線が二十分後で、仕方がないから待合室の傍のお土産売場に入った。いつも世話になっている快人に何か買っていこうと思って、無難なお菓子の箱を一つ買う。そういえば、先週の京都のときにはお土産など考えもしなかった。
荷物とお土産の紙袋を提げて新幹線に乗った。半端な時間だから空いていて、窓際の席で外を見ながら東京に戻る。窓の外には晴れた空が広がっていたが、その奥に灰色の雲が僅かに覗いていた。これからその雲が広がって雷雨になるかもしれない。そうなれば、存分に食事を楽しむつもりの新太たちが困ってしまう。
雨雲が散って空が晴れ渡りますように。新太が彦音と楽しめますように。また来週も新太と会えますように。
少し疲れて背凭れに身体を預けて、誰にだか分からない願いごとをしていた。