カタクリ色の恋噺

 元々、収録の手伝いに来なくていいと言われていた週だった。
 対談番組のゲストは新太の師匠の師匠である甘茶蔓彦音あまちゃづるひこね。彼は近年身体が弱くなり、出身地の名古屋に戻って静かに暮らしている。新太の番組の出演オファーを受けてくれたが、そんな事情でこちらまで来られないので、出張収録という形になったのだ。もちろん自分がそれについていけるとは思っていなかった。
 だが新太が直前で慈も来るようにと言ってくれた。収録はホテルの一室を借りて行い、そのホテルに部屋を取ってスタッフたちが宿泊する。彦音の体調が整いづらい可能性を考慮して、余裕を持ったスケジュールを組んでいるらしい。
 金曜の夜、慈は顔見知りの若い男性スタッフと新幹線に乗り、名古屋に向かった。少しだけ新太と二人きりの道中を想像したが、当然そんな夢のような話はなく、彼は仕事の都合で慈よりあとの新幹線でやってくる。
「すみません。俺なんかがついてきちゃって」
 買っておいたお茶を差し出すついでに詫びれば、窓側の席の彼が優しい顔で応じてくれた。まだこの業界に入って日が浅い水上という男だ。年が近い彼には、収録で分からないことがあったときに、何度か助けてもらっている。
「いえいえ。急な話だったのに来てもらってありがたいですよ。本人は大丈夫だと仰っていますけど、やっぱり看護師さんがいると安心ですからね」
 水上にお茶のお礼にお菓子を差し出され、ありがたく受け取る。
 縁起でもない話だが、万が一収録中に彦音が倒れて亡くなるなどということがあれば、番組の責任問題にもなりかねない。名人と呼ばれるようなゲストは当然高齢になるから、新太の番組のスタッフは細心の注意を払っている。
 簡単に翌日の流れを確認して、その後は水上と他愛もないお喋りをしながら、和やかな道中になった。駅前のホテルに徒歩で向かって、フロントで鍵を受け取る。若いスタッフと同部屋だろうと思っていたのに、意外に慈にもシングルの部屋が宛てがわれていた。急遽決まったからなのか、水上や他のスタッフとは違う階で、エレベーターホールで水上と別れて部屋に向かう。
 十階の部屋は広くはないが清潔で、慈にとってはありがたいものだった。窓がなくて夜景は見えないけれど、小さな仕事机の上のランプにはステンドグラスのような細工がしてあり、それだけで幸せな気分になる。
 その机で事前に渡されていた資料の見直しをした。明日は朝から、番組のワゴンで彦音を迎えに行くのに同乗する。車内で打ち解けて看護師としての信頼を得て、体調も聞いておかなければならない。然程難しい性格ではないと聞いているが、タブーの話題があったりしないだろうか。そう思って、スマホで彼の経歴と評判も調べておく。
 それが終わると明日の持ちものを確認した。慈の泊りの荷物は最小限だが、収録で必要になりそうなものを自腹で揃えてある。急に暑くなった場合の保冷剤。逆に彦音がエアコンで寒いと言った場合のカイロと膝掛け。すぐにホテルに入るから問題ないだろうと思いながらも、経口補水液のペットボトルやゼリーも用意してある。それに救急セット一式と、話のネタにもなる水銀血圧計と聴診器。
 一通り確認し終えれば十一時を過ぎていた。明日の朝は集合時間の前に朝食と身支度を済ませなければならないから、早く寝るに越したことはない。そう思い、手早くシャワーを済ませて軽く髪を乾かす。
 スマホのアラームをセットしてベッドに入ったところで、小さなノックの音がした。水上だろうかと思い、ホテルの浴衣のままドアに向かって確認もせずに開ける。
「あ……」
 そこには新太がいた。
「ごめん。もう寝るところだった?」
「いえ」
 動揺して反射的に嘘を吐いてしまう。気の抜けすぎた浴衣姿でいる慈と違って、新太はセンスのいい私服姿でいた。肩からスポーツバッグを掛けているから、名古屋についてすぐ来てくれたのだろうか。そう思えば鼓動が速くなる。
 もしかしたら、慈の部屋に泊まってくれるのだろうか。他のスタッフには秘密の夜を過ごせるのだろうか。だから急遽同行することになったのだろうか。頭の中で様々な想いが巡って、顔に出さずにいるのに苦労する。もちろん、新太に求められれば慈に断る理由はない。
「これを渡そうと思って」
 だが慈の溢れそうな想いと裏腹に、新太が差し出してきたのは『ねこチョコ』の小さな箱だった。
「さっき近くのコンビニで買ったんだ。まだ出ていないおまけがあるって言っていたでしょう? 名古屋で買えば新しいのが出るかと思って」
「わざわざ買ってくれたんですね」
「うん。名古屋まで来てもらっちゃったからね」
 受け取れば新太が満足げな表情になる。
「じゃあ、お休み。明日は長丁場になるから、よろしく」
「……はい。お休みなさい」
 にっこり笑って去っていく彼の背を見送って、見えなくなったところでドアを閉めた。淡い期待を断ち切るように、ロックも掛けてしまう。
 新太はいつもそうだ。慈の心が離れられなくなるような絶妙な気遣いをくれるのに、決して決定的なものはくれない。だが厄介なことに、慈はそんな彼にどうしようもなく参っている。
 窓の開かない部屋に戻って、ステンドグラスのライトの下でねこチョコの箱を開けてみる。今まで手に入れたことのない猫が出てきて、思わず苦笑する。新太は慈にとって、このねこチョコみたいだと思う。猫のおまけなんて集めても役に立たないと分かっている。それでも部屋に飾らずにはいられないし、箱を開ける瞬間は何度でもドキドキする。新しいおまけに出会えれば子どもみたいに喜んでしまう。今夜こうして新しい猫に出会って、自分はまた更に彼に雁字搦めになる。
 壊してしまわないように大事に箱に戻して、猫のおまけを鞄にしまい込んだ。ベッドに戻っても、一度昂った身体になかなか眠気はやってこない。
 特別になれないのなら、せめて彼が誰のものにもなりませんように。慈の他に特別な人間を作りませんように。
 目を閉じて、長くそんなことを願っていた。
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