カタクリ色の恋噺

 勝手に稽古を見ていたことが申し訳なくなって、カウンターの前に回って頭を下げた。そんな慈に、立ち上がってやってきた新太が笑う。
「勝手に入っていいと言っているんだもん。謝ることはないでしょう? それに僕は落語を観られるのが商売だからね」
 眉を下げて笑ってくれる言葉に、今日もまた惹かれてしまう。
「昼から稽古って珍しいですね。急な落語会が決まった、とかですか?」
「ううん。ただの稽古。ちょっと自信をなくしていてね。もっと精進しないと、と思ったんだ」
 さらりと言われて返す言葉に困ってしまう。本音を告げられて嬉しいが、落語家でない慈には役に立つアドバイスができない。
「……何かあったんですか?」
 聞いていいものだろうかと思いながら恐る恐る聞けば、また彼が屈託なく答えてくれる。
「慈に弱音を吐くのも情けないんだけどね。またずっと下の後輩が『早朝落語』に出ることになったんだ。それで少し落ち込んでいたところに、昨日の寄席のあとちょっとあってね」
「トラブルですか?」
「ううん。ほら、よくあるやつ。長年の落語ファンが楽屋まで押しかけてきたんだ。小言のためにね」
 惚れた欲目ではなく、新太の落語は多くの観客に好評だ。だが長年の落語ファンの中には、別の師匠の方がよかったとか、○○師匠とは比べものにならないとか、そんなことを言う人間もいるという。同じ演目をやっても表現の違いがあるから面白いんじゃないかと慈は思うが、中には演目の最中にメモを取り、楽屋までダメ出しのメモを持ってやってくる者もいるらしい。このご時世、強気な態度で返せばどんなトラブルになるか分からないから、言い返すことなく笑って頭を下げる。出番を終えたばかりの噺家たちには相当なストレスなのだ。
「あの」
 そこでふと、マイバックと一緒に下げてきた紙袋のことを思い出した。今日は会えないと思っていたが、万が一のために会えるまで持ち歩こうと思っていたのだ。
「これ、この間京都に行ったお土産なんですけど」
 キッチンから取ってきて袋ごと渡せば、新太がきょとんとする。だが彼らしい回転のよさで、すぐに分かって微笑んでくれた。
「僕に買ってきてくれたの?」
「はい。友達と京都に遊びに行って、たまたま和小物の店が目についたので」
 そこは嘘を吐いた。いくら新太でも、わざわざ扇子のために京都まで行ったと知れば重すぎて引くだろう。それくらいは慈にも分かるのだ。
「慈も友達と旅行をしたりするんだね」
 特に拘りもなく言いながら、新太が紙袋から細長い箱を取り出す。
「扇子だね。高座扇かな?」
 流石にすぐに気づいて、そのまま彼が箱を開ける。
「わ、綺麗」
 新太が扇子を取り出して、閉じたり開いたりしてみせる。
「凄い。有名店じゃない」
 紙の箱に書かれていた店名に彼が声を上げる。慈は初めて見る店だったが、新太は商売道具だから当然知っていたのだろう。そこで今更はっとして、自分の行動を恥じる。
「あの、すみません。やっぱりそれ、持って帰ります」
「え? どうして?」
「だって、本職の人に仕事道具を贈るなんて、考えてみたら失礼ですよね。すみません。よく考えていなくて」
 しどろもどろになって、とにかく扇子は返してもらおうと慌てる。そんな慈にふっと笑って、新太が扇子を持った手を高く掲げてしまう。
「届かないでしょう? 僕の方が三センチだけ身長が高いからね」
 そんな冗談に、どうしようもなかった慈の気持ちも和む。
「これはもう貰ったものだから、僕のものだよ。ありがとう、慈」
 そう言われて、あと少しで泣きそうで、俯いて息を吸って堪えた。
「綺麗だね。親骨に細工がしてある」
「はい。そのくらいの細工なら、お客さんからも見えないかなって」
「なんだ。ちゃんと分かっているじゃない」
 そう言って、新太が扇子と逆の手で慈の身体を抱き寄せてくれる。込み上げる涙と一緒に上がっていた体温が、そうされれば更に上がって、どうかこれ以上おかしな反応を起こさないでと、自分の身体に願ってしまう。
「……願い扇子っていうらしいんです。それを持っていると、出世したり願いが叶ったりするって。お店の女将が、そんな人を何人も見たって言って」
「それは頼もしいな」
 ぽんぽんと慈の肩に触れて、新太の体温は離れていった。男同士のじゃれ合いを越えない触れ合い。それでも彼に触れられた肩が熱い。
「特別な日に使わせてもらうね。それまでは大事に傍に置いておく」
「はい」
 新太が閉じた扇子を紙箱に戻して、そこで漸くほっとした。噺家それぞれに使い勝手というものがあるから、贈ったものを寄席や落語会で使ってもらえるとは思っていなかった。新太が傍に置いてくれると言ってくれた。それで充分嬉しい。
「ご飯の支度をします。なるべく静かにやりますから」
 なんだか照れて、一度キッチンに避難してしまおうと思った。だが新太がそんな慈の手を引いて止める。
「ねぇ、慈」
 また密かに鼓動を速めながら振り向けば、いつもの人懐っこい彼の顔が目に映る。
「名古屋に行かない? 金曜の夜に向かって、土曜の夜帰れると思うけど」
 なんでもないことのように言われた。
「金曜って明後日ですか?」
「うん。ダメかな?」
「いえ。行きます」
 余計な間を作って、せっかくのチャンスを逃したくなかった。新太が来いというのなら、自分はどこにだって行く。
「じゃあ、決まり。金曜の夕方の新幹線ね」
 彼の飄々とした言葉で、二週連続の遠出が決まったのだった。
14/35ページ
スキ