カタクリ色の恋噺

 いつものように水曜に来て掃除と料理をしてほしいと言われていたから、病院の仕事を終えて新太の部屋に向かった。前日のラインで、暑気あたり気味だから野菜スープが食べたいと言われて、近くのスーパーで野菜とブイヨンを買い込んでくる。
 新太は全く料理をしないから、冷蔵庫に使いかけの野菜を残せば困らせてしまう。材料を使いきるように沢山作って、小分けにして冷凍しておこう。慈の料理がない日はコンビニ弁当がメインらしいから、できるだけ多く手料理を食べてほしい。本音は毎日料理をしに来たいが、彼にだって都合はあるだろうから、指定された日以外は自制しているのだ。
 鍋を火に掛けている間に掃除をしよう。新太は適度に綺麗好きだから部屋が汚れていることはないが、細かい部分を掃除しておけば喜んでくれる。ウェットシートを持参したから、今日は拭き掃除もしよう。そんな主婦のようなことを考えながら彼の部屋に入る。
 玄関に鍵が掛かっていたから、いつものように不在なのだろうと思って、躊躇いなくキッチンまで行った。だがマイバッグに入った食材を調理台に下ろしたところで、聞こえてきた声にはっとする。
 振り向いてキッチンカウンターの向こうに目を遣れば、リビングで窓に向かって正座する新太の姿があった。仕事ではないのに紺色の着流し姿で声を発している。珍しく昼間から稽古中だ。
 慈も何度か聞いたことがある演目だとすぐに分かった。おかしな食べものをプライドの高い知人に珍味だと言って勧める話で、新太がやるととても評判がいい。観客の気分になった途端に圧倒される。
 新太は上手い。得意とする笑い話は情景が目に浮かぶようで、沈んだ気持ちで寄席に来た客も帰る頃には気分が晴れると有名だ。
 落語の演目は、名人と言われる師匠も前座の新人も同じものをやったりする。一語一句違わない言葉の中で、身振り手振りや声音で個性を出していく。当然、ベテラン師匠の方が上手かったと不満が出ることもあるし、有名な演目は自身の評価を下げることも少なくない。それでも、慈は新太の落語が好きだった。テレビで観た人柄のいい男性有名人を好きになったというだけではない。寄席に通って、素人なりに彼の才能に惹かれたのだ。
「……!」
 窓に向かって稽古を続ける新太が、高座扇で一つ床を打つ。その扇子が今度は箸の代わりになって、食事のシーンを作り上げる。噺家は何もないところから仕草や表情を作り上げる。実際には座布団に座った新太が一人いるだけなのに、慈にはその家の様子も、彼が三人も四人も演じ分ける人物たちも、みな本当にそこにいるように見えてしまう。
 新太は落語家の中では苦労知らずと言われている。理由の一つが落語界に入った方法だ。落語家になるには必ず誰かに弟子入りしなければならない。これぞと思った師匠の楽屋に通って頼み込むこともあるし、とにかく弟子にしてくれそうな師匠に片っ端から当たることもある。その第一の試練を新太は経験しなかった。落語家になりたいと言ったら、落語ファンだった父親が知人の師匠を紹介してくれて、話がトントン拍子に進んだらしい。
 明るく人懐っこい新太は師匠に可愛がられ、特に辛い思いをすることもなく真打まで昇進した。元々実家は裕福だったが、二ツ目時代からテレビの仕事が入るようになって、お金にも困ったことがない。そんな新太を、運がいいだけだとか、苦労を知らない分深みがないと言う者がいる。だが彼らに反論することなく、新太は実力でやり返した。新人賞や芸術賞をいくつも取って、寄席の会場を満員にしてみせた。人気のベテラン師匠から、ぜひ自分の落語会の前座をしてほしいと言われることも増えて、それが更に彼の力になったのだ。
 新太は人を悪く言わない。そしてよく笑う。自分の努力も才能もひけらかすことなく、後輩の幸運も喜べる。世間知らずと言われようと、他の一門のドロドロに首を突っ込んだりせず、自分が向き合って聞いた本人の言葉で人を判断する。そんな彼だから、MCを務める対談番組も長く続いているのだ。
 見つめているうちに演目が終わり、新太が前に手をついて頭を下げる。そこで素の自分に返ったらしい。
「慈?」
 気配に気づいた彼がこちらに顔を向ける。
「えっと。すみません、勝手に」
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