カタクリ色の恋噺

 恋愛感情に気づかれたら困るだろうと、快人はそんなニュアンスで言った。だが慈の本音は、そうなってもいいと思っている。合鍵を渡されて掃除や料理までしているのだ。なんの気持ちもないと思われている方が不思議だろう。彼が慈の気持ちを知って、今より親密な関係に昇格することはないだろうか。新太は男性が好きだと言った。自分が抱く方だとも。それなら自分ではダメだろうか。彼のためならどんなことでもする。誰にもバレたくないから一日中部屋に籠っていろと言われれば、喜んでそうする。
 だが実際彼に何か特別なことを言われたことはない。気遣いを褒めたり頭を撫でたりすることはあるが、それはあくまで友人でもおかしくない範囲でだ。
 嫌われてはいない。部屋に勝手に入っていいと言うのだから信頼もされている。掃除の加減や作る料理も彼の好みに合っているのだろう。だがそれでは、多少仕事の手伝いもできる家政婦というのと変わらない。彼が真打になって一年以上経った。真打になれば弟子も取れるから、そのうち新太が弟子を取って、慈の仕事は彼らに奪われてしまうかもしれない。
 考えるほど不安が募って、気がつけば無意識に部屋まで帰り着いていた。鍵を開けて入り、そのまま寝室に向かってしまう。ベッドサイドにぺたんと座って、柔らかなベッドに身体を寄せた。腕に頬を乗せて、今日明日で解決することはない想いに悩み続ける。
 自分には看護師の資格がある。だから少なくとも番組の手伝いは続けられる。そう思えば、どうしようもない気持ちが少しだけ浮上した。眠るつもりだったのに、そうせずにいられなくなって、老人看護の教科書を出してきて広げる。番組の楽屋で、高齢の師匠たちに起こりそうな症状はどんなものか。慈は医師ではないからできることは限られるが、救急車が到着するまでどんな応急処置ができるか。何度も読んだページに目を遣って、頭の中でもしものことが起こった場合のシミュレーションをする。楽屋で倒れた場合は慈が病院まで付き添うことになる。テレビ局の近所ならどの病院に運ばれるだろう。色々と考えて、そのうち疲れに負けて眠ってしまう。
 肩を揺すられて目を覚ませば、窓の外が暗くなって、部屋の明かりが点けられていた。
「そんな寝方をしたら風邪を引く。せめてベッドで寝ろよ」
 最早怒りを通り越した諦めモードで起こしてくれるのは、当然自由にここに出入りできる快人だ。
「ごめん」
「いや。別に謝らなくてもいいけど」
 昼間ちょっとした言い争いになったから、数日は会えなくなるかなと思った。だが快人はいつもと変わらず慈の心配をして世話を焼いてくれる。
「夕飯にしないか? その様子だと、昼も碌に食べてないんだろ?」
「……ごめん」
 今更色々申し訳なくなって詫びれば、快人が苦笑した。眉を下げて笑うが、そこに決して慈を蔑む色はない。
「勉強していたんだな」
 ベッドの上に広げたままの本を見て彼が言った。
「うん。応急処置くらいはできないとと思って」
「ちゃんと看護師やればいいのに。やりがいがあると思うぞ」
「看護師になったのは、新太さんの番組のためだから」
 いけない。これでは昼と同じことを繰り返してしまう。そう思ったが、今度は頭のいい快人の方がそれをよく分かっていた。
「パスタ屋のパスタとか肉とか色々買ってきた。食べて少しはあの男と別のことでも考えろ」
 空気が悪くならないうちに立ち上がって、リビングに続くドアに向かってしまう。
「ありがとう。いつも」
「同じ建物内で餓死でもされてみろ。俺は医者失格で医師免許を取り上げられる」
「そんなことある訳ないでしょう?」
「いや、お前ならありえる。あの男の動画に夢中になりすぎて、飯を忘れて倒れていそうだもんな」
 思い当たる節がありすぎて反論できない。
「否定しろよ。怖くて一人にしておけなくなるだろうが」
 また苦笑した彼に手招きされて、ようやく立ち上がってリビングに向かった。新太のことを思えば、それが幸せな思い出でも苦しい未来でも、どちらにせよ食事どころではなくなってしまう。
 自分がこうして普通の生活ができるのは、快人のお陰だと改めて思った。けれど同時に、自分が恋煩いで亡くなったら、新太は哀しんでくれるだろうかと、また彼のことを考えていた。
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