カタクリ色の恋噺
呆れたように言いながら彼が隣に腰を下ろした。快人はいい男だが、白衣姿だと更に魅力が増す。癖のない黒髪を診察の邪魔にならないようにきっちりと上げた姿は、彼の凛とした佇まいを際立たせる。
考えてみれば、伯父が理事長、父親が院長、従弟と兄が外科医という病院なのだから、快人がこの建物の隅々まで知っていても不思議ではない。
「お疲れだな。またあいつにいいように使われたのか?」
「違う。昨日ちょっと京都に行ってきただけ」
新太を悪く言われるのが嫌でつい本当のことを言ってしまって、すぐに後悔した。
「京都? まさか日帰りか? 一体なんのために」
「京都の和小物店に願い扇子っていう扇子が売っていて、それを持っていると願いが叶うってネットに書いてあったから、どうしても欲しくなって」
「欲しくなってって、扇子ということは、どうせ奴へのプレゼントだろ?」
正解なので頷けば彼が頭を抱える。
「ネットで見つけたならそのままネットで買えばいいだろうが」
「新太さんに贈るものをネットで選べる訳がないでしょう? 直接買いに行った方が願いが叶う可能性が高くなりそうだし」
「お前は馬鹿か。いや、馬鹿だ」
本気で呆れられてしまった。その後やれやれといった様子で彼が言う。
「なぁ。芸能人の追っかけなんかで人生を浪費していていいのか? 派手な生活をしている奴らが、お前とどうこうなる訳ないだろ?」
「新太さんは噺家だから、厳密に言うと文化人って扱いなんだよ。華やかな生活をしている訳でもないし、テレビのギャラだってそこまで」
「そんなことはどうでもいい。お前は頭もいいし、もっといくらでもいい人生を送れる筈だろ? 掃除の仕事が悪いとは言わないが、もっとフラフラしなくていい生活がしたいとは思わないのか?」
その台詞にはカチンときた。
「いい人生って何?」
快人に対して珍しく言い返してしまう。
「ずっと、休みの日は家で静かに過ごしているような人間だったよ。それが新太さんを知って、寄席や地方公演に行くようになって、京都に買いものにも行った。それのどこがいけないの? いい会社で働いて、休日は家で引き籠もっていれば、それがいい人生なの? そんなの勝手に決めてほしくない」
慈の勢いに驚いて、快人が言葉をなくす。その後諦めたように視線を外して、小さくため息を吐く。
「悪い」
謝られれば、こちらも冷静さが戻ってきた。
「いえ。俺の方こそ。快人さんがタダで住まわせてくれているから、こんな風に暮らしていられるって分かっているのに」
「いや。それは俺の勝手だからいいんだ」
互いに詫びれば、その後何を言っていいか分からなくて、気まずい沈黙が流れる。
「なぁ。それ、いつも鞄についているけど、なんだ?」
快人が話を変えるように、慈が抱いていた鞄を指した。そこには小さなカードケースにボールチェーンを通したものが下げられていて、ケースの中に二つに折り畳んだ薄紫色の紙が入っている。快人が喜ぶ話ではないが、誤魔化せる気もしなくて、仕方なく事実を答える。
「……新太さんと初めて話したときに貰ったお菓子の包み紙。綺麗だったから」
「聞かなきゃよかった」
案の定そう言って、彼が今度こそ匙を投げたように立ち上がる。
「そんなものを大事にぶら下げているんだ。あの男もとっくにお前の気持ちに気づいているんじゃないのか? ただのファンとして傍にいるんじゃないって」
「新太さんは、人の服装とか持ちものを気にするようなタイプじゃないから」
「ああ、そうかよ」
不機嫌を隠すことなく、快人は去っていった。忙しい医師の短い休憩時間なのに、気分を悪くして悪かったと思う。だが新太に対する気持ちは誤魔化せない。快人が言うように、今の自分の生活が正しくないということくらい分かっている。それでも、正しくないからやめなさいと言われてやめられるものではない。今新太をなくしたら、自分がどう生きていけばいいか分からない。これからの人生、何一つ楽しいことはないような気がしてしまうのだ。
「……帰ろう」
呟いて、漸く病院の建物を出た。外に出れば夏の盛りの外気に晒され、思わず一度足を止めてから、日陰を選んで歩き始める。
考えてみれば、伯父が理事長、父親が院長、従弟と兄が外科医という病院なのだから、快人がこの建物の隅々まで知っていても不思議ではない。
「お疲れだな。またあいつにいいように使われたのか?」
「違う。昨日ちょっと京都に行ってきただけ」
新太を悪く言われるのが嫌でつい本当のことを言ってしまって、すぐに後悔した。
「京都? まさか日帰りか? 一体なんのために」
「京都の和小物店に願い扇子っていう扇子が売っていて、それを持っていると願いが叶うってネットに書いてあったから、どうしても欲しくなって」
「欲しくなってって、扇子ということは、どうせ奴へのプレゼントだろ?」
正解なので頷けば彼が頭を抱える。
「ネットで見つけたならそのままネットで買えばいいだろうが」
「新太さんに贈るものをネットで選べる訳がないでしょう? 直接買いに行った方が願いが叶う可能性が高くなりそうだし」
「お前は馬鹿か。いや、馬鹿だ」
本気で呆れられてしまった。その後やれやれといった様子で彼が言う。
「なぁ。芸能人の追っかけなんかで人生を浪費していていいのか? 派手な生活をしている奴らが、お前とどうこうなる訳ないだろ?」
「新太さんは噺家だから、厳密に言うと文化人って扱いなんだよ。華やかな生活をしている訳でもないし、テレビのギャラだってそこまで」
「そんなことはどうでもいい。お前は頭もいいし、もっといくらでもいい人生を送れる筈だろ? 掃除の仕事が悪いとは言わないが、もっとフラフラしなくていい生活がしたいとは思わないのか?」
その台詞にはカチンときた。
「いい人生って何?」
快人に対して珍しく言い返してしまう。
「ずっと、休みの日は家で静かに過ごしているような人間だったよ。それが新太さんを知って、寄席や地方公演に行くようになって、京都に買いものにも行った。それのどこがいけないの? いい会社で働いて、休日は家で引き籠もっていれば、それがいい人生なの? そんなの勝手に決めてほしくない」
慈の勢いに驚いて、快人が言葉をなくす。その後諦めたように視線を外して、小さくため息を吐く。
「悪い」
謝られれば、こちらも冷静さが戻ってきた。
「いえ。俺の方こそ。快人さんがタダで住まわせてくれているから、こんな風に暮らしていられるって分かっているのに」
「いや。それは俺の勝手だからいいんだ」
互いに詫びれば、その後何を言っていいか分からなくて、気まずい沈黙が流れる。
「なぁ。それ、いつも鞄についているけど、なんだ?」
快人が話を変えるように、慈が抱いていた鞄を指した。そこには小さなカードケースにボールチェーンを通したものが下げられていて、ケースの中に二つに折り畳んだ薄紫色の紙が入っている。快人が喜ぶ話ではないが、誤魔化せる気もしなくて、仕方なく事実を答える。
「……新太さんと初めて話したときに貰ったお菓子の包み紙。綺麗だったから」
「聞かなきゃよかった」
案の定そう言って、彼が今度こそ匙を投げたように立ち上がる。
「そんなものを大事にぶら下げているんだ。あの男もとっくにお前の気持ちに気づいているんじゃないのか? ただのファンとして傍にいるんじゃないって」
「新太さんは、人の服装とか持ちものを気にするようなタイプじゃないから」
「ああ、そうかよ」
不機嫌を隠すことなく、快人は去っていった。忙しい医師の短い休憩時間なのに、気分を悪くして悪かったと思う。だが新太に対する気持ちは誤魔化せない。快人が言うように、今の自分の生活が正しくないということくらい分かっている。それでも、正しくないからやめなさいと言われてやめられるものではない。今新太をなくしたら、自分がどう生きていけばいいか分からない。これからの人生、何一つ楽しいことはないような気がしてしまうのだ。
「……帰ろう」
呟いて、漸く病院の建物を出た。外に出れば夏の盛りの外気に晒され、思わず一度足を止めてから、日陰を選んで歩き始める。