カタクリ色の恋噺
早朝に京都に到着したあと、ファストフード店をはしごして和小物店の開店時間を待った。飲みものを頼んで窓際の席に座り、新太の動画を見て時間を潰す。せっかく京都に来たけれど、慈自身には欲しいものも見たいものもなかった。新太のための願い扇子。目的はそれだけだ。
迷わずに見つけられた和小物店では、きちんと着物を着た女将が、何も分からないような慈にも丁寧に接客をしてくれた。大事な人に御守り代わりに贈りたい。そう言えば、いくつか綺麗な柄のものを出してくれる。
「御守り代わりなら、見た目が綺麗なものがいいですね。サイズも普通のサイズの方が持ち運びやすいですし。大きな企業の社長さんなんかで、縁起を担いで高座扇 を買っていく方もいるんですけど、一般の方には使いにくいでしょうから」
「高座扇? 高座扇の願い扇子もあるんですか?」
彼女が何気なく言った言葉に反応して、つい必死になってしまった。
「ええ。噺家の方が買いに来てくれることもありますよ」
「見せてもらってもいいですか?」
「もちろん」
どう見ても噺家でも大企業の社長でもない慈におかしな顔をすることもなく、女将は高座扇が並んだ箱を持ってきてくれた。高座扇は普通の扇子より大きめに作られていて、落語家はそれを箸にも煙管にも釣竿にもして観客を楽しませる。観る者が扇子の柄に気を取られることがないよう、高座扇は広げると白の無地であることが多いのだ。
「東京の噺家さんは前座や二ツ目や真打って分かれているんでしょう? 真打昇進まで十六、七年かしら。もっとかしらね。ここでもトリを目指して買っていく若い方がいるんですよ」
頭のいい女将は、慈を東京の熱心な落語ファンだと思ってくれたらしい。新太はとっくに真打に昇進しているが、熱心なファンというのは間違っていない。
「あの。大好きな落語家さんがどうしてもやりたい仕事があって、それを叶えるために贈りたいんです」
もう隠すことなく言えば、女将も優しく笑ってくれた。
「そうですか。ではこちらなんていかがでしょう? 親骨と中骨のところに目立たないように模様が入っていて、素敵なんですよ」
勧められて手に取れば、確かにいいものだった。作りもしっかりしていて、素人の慈にもよさが伝わってくる。値段を聞いて躊躇ったのはほんの一瞬だ。新太のために使わなければ、自分にお金の使い道などない。そう思って、多めに用意してきた現金で支払いを済ませてしまう。
ミニサイズの手拭いをおまけで貰って、気のいい女将のいる店を出た。京都らしい綺麗な紙袋を大事に抱えて、慈はまっすぐ駅を目指す。帰りは新幹線を乗り継いで、車内でうとうとと眠りながら東京まで帰った。高速バスの方が財布には優しいが、明日の仕事を思えば帰りはそうもいかない。
散財も無茶な長距離移動も問題ではなかった。願い扇子が買えた。そのことに満足して、紙袋を潰さないよう大事に抱えて、窓に寄りかかって目を閉じる。
漸く家に帰り着いたあとは、食事も摂らずにベッドに倒れ込んだ。新太にいつ渡そう。なんと言って渡せばいいだろう。そんな幸せな悩みを抱えて、朝まで夢も見ずに眠ってしまう。
よく眠った筈だったが、流石に京都日帰りの疲れは残ってしまった。いつものように六時半に仕事を始め、七時から同僚とその日のノルマを熟していく。疲れた身体でも慣れた仕事は定時に片付き、同じ上り時間の同僚と挨拶を交わして別れる。
月曜は新太から呼び出しが入ることは滅多にない。そう思うから、院内の隅にある階段下のスペースで少しぼんやりすることにした。中央の階段やエレベーターが便利だから、この階段はほとんど誰にも使われない。誰が置いたのか知らないが、青いロビーチェアが置かれていて、慈の秘密の休憩スペースと化している。
ロッカーで着替えも済ませて、あとは帰るだけだというのに、暑い外に出て家まで歩くのが億劫で仕方なかった。早く帰って部屋のベッドで眠る方がいいと分かっているのに、壁に頭を寄せて目を閉じてしまう。
「おい。こんなところで寝るな」
意識が薄れかかったところで、慣れた声が降りてきた。
「快人さん、どうして」
「お前の行動くらい把握しているんだよ」
顔を上げれば白衣姿の彼が、眉を寄せて慈を見下ろしている。
「まったく」
迷わずに見つけられた和小物店では、きちんと着物を着た女将が、何も分からないような慈にも丁寧に接客をしてくれた。大事な人に御守り代わりに贈りたい。そう言えば、いくつか綺麗な柄のものを出してくれる。
「御守り代わりなら、見た目が綺麗なものがいいですね。サイズも普通のサイズの方が持ち運びやすいですし。大きな企業の社長さんなんかで、縁起を担いで
「高座扇? 高座扇の願い扇子もあるんですか?」
彼女が何気なく言った言葉に反応して、つい必死になってしまった。
「ええ。噺家の方が買いに来てくれることもありますよ」
「見せてもらってもいいですか?」
「もちろん」
どう見ても噺家でも大企業の社長でもない慈におかしな顔をすることもなく、女将は高座扇が並んだ箱を持ってきてくれた。高座扇は普通の扇子より大きめに作られていて、落語家はそれを箸にも煙管にも釣竿にもして観客を楽しませる。観る者が扇子の柄に気を取られることがないよう、高座扇は広げると白の無地であることが多いのだ。
「東京の噺家さんは前座や二ツ目や真打って分かれているんでしょう? 真打昇進まで十六、七年かしら。もっとかしらね。ここでもトリを目指して買っていく若い方がいるんですよ」
頭のいい女将は、慈を東京の熱心な落語ファンだと思ってくれたらしい。新太はとっくに真打に昇進しているが、熱心なファンというのは間違っていない。
「あの。大好きな落語家さんがどうしてもやりたい仕事があって、それを叶えるために贈りたいんです」
もう隠すことなく言えば、女将も優しく笑ってくれた。
「そうですか。ではこちらなんていかがでしょう? 親骨と中骨のところに目立たないように模様が入っていて、素敵なんですよ」
勧められて手に取れば、確かにいいものだった。作りもしっかりしていて、素人の慈にもよさが伝わってくる。値段を聞いて躊躇ったのはほんの一瞬だ。新太のために使わなければ、自分にお金の使い道などない。そう思って、多めに用意してきた現金で支払いを済ませてしまう。
ミニサイズの手拭いをおまけで貰って、気のいい女将のいる店を出た。京都らしい綺麗な紙袋を大事に抱えて、慈はまっすぐ駅を目指す。帰りは新幹線を乗り継いで、車内でうとうとと眠りながら東京まで帰った。高速バスの方が財布には優しいが、明日の仕事を思えば帰りはそうもいかない。
散財も無茶な長距離移動も問題ではなかった。願い扇子が買えた。そのことに満足して、紙袋を潰さないよう大事に抱えて、窓に寄りかかって目を閉じる。
漸く家に帰り着いたあとは、食事も摂らずにベッドに倒れ込んだ。新太にいつ渡そう。なんと言って渡せばいいだろう。そんな幸せな悩みを抱えて、朝まで夢も見ずに眠ってしまう。
よく眠った筈だったが、流石に京都日帰りの疲れは残ってしまった。いつものように六時半に仕事を始め、七時から同僚とその日のノルマを熟していく。疲れた身体でも慣れた仕事は定時に片付き、同じ上り時間の同僚と挨拶を交わして別れる。
月曜は新太から呼び出しが入ることは滅多にない。そう思うから、院内の隅にある階段下のスペースで少しぼんやりすることにした。中央の階段やエレベーターが便利だから、この階段はほとんど誰にも使われない。誰が置いたのか知らないが、青いロビーチェアが置かれていて、慈の秘密の休憩スペースと化している。
ロッカーで着替えも済ませて、あとは帰るだけだというのに、暑い外に出て家まで歩くのが億劫で仕方なかった。早く帰って部屋のベッドで眠る方がいいと分かっているのに、壁に頭を寄せて目を閉じてしまう。
「おい。こんなところで寝るな」
意識が薄れかかったところで、慣れた声が降りてきた。
「快人さん、どうして」
「お前の行動くらい把握しているんだよ」
顔を上げれば白衣姿の彼が、眉を寄せて慈を見下ろしている。
「まったく」