カタクリ色の恋噺
ペーパー看護師。自分でそう言ってしまえる人間も珍しいだろう。一度病院勤務をして仕事を離れた人間ならともかく、一度も病院で働いたことのない人間なら尚更だ。
空いた時間に、今ではもう珍しい聴診器と水銀計で測るタイプの血圧計を片付けながら、慈 は時々そんなことを思う。
浅井慈 がいるのは病院でも福祉施設でもなく、あるテレビ局の楽屋の隅だ。落語家甘茶蔓新太 がMCを務める対談番組は収録が土曜の午後と決まっていて、その手伝いのために、収録のたびにこうして楽屋を訪れている。
番組内容は至ってシンプルで、新太とゲストが向かい合って話をするだけ。だからこそMCの実力が試されるというもので、もう六年続いているということは、新太の実力は制作側にも視聴者にも伝わっているということだ。もちろん彼の本業は落語家で、テレビ出演などしなくても、彼の実力は充分評価されている。
鏡とライトがついたメイク台が二つ並び、その奥半分が畳敷きになっている楽屋で、手持ち無沙汰になって、なんとなく片付けと掃除を始めてしまった。そこで廊下側からざわざわと人の声が近づいてくる。どうやら漸く収録が終わったらしい。
深夜に放送されるたった十分の番組だが、収録は二時間近く掛かるのが普通だった。新太とゲストの話の中で特にいい部分を選んで十分に編集する。収録に携わるようになった当初は驚いたが、今では長寿番組を作るためには当然だと思うようになった。新太はもちろん、カメラマンも編集もみなプロだ。それを思えば、自分の不確かな立場が心許ない。いや、今の生き方に決して不満はないのだけれど。
「お疲れ、慈」
「お疲れさまです。遅くまで疲れたでしょう?」
「うん。でも無事に終わってよかった」
ドアを開けて待っていれば、人懐っこい笑顔で新太が入ってきた。この番組用に作った濃いグレーの着物がよく似合う、慈の憧れの男性だ。
「スタートが遅れて虎丸 師匠が怒り出すんじゃないかって心配したけど、慈のお陰で機嫌がいいままだったよ。いい助手がいるなって褒められたから」
「お役に立てたのならよかった。虎丸師匠なんて大御所すぎて、俺みたいな落語と無関係の人間が近づいていいのかって心配したんですけど」
番組では新太の先輩の噺家がゲストになることが多い。落語界の大御所ともなれば高齢の人間が多くて、収録前の体調管理が必要になる。という訳で、慈が楽屋を訪ねて血圧を測りながら雑談をして、具合の悪いところはないか聞いておく。初対面の人間と話すのは得意ではないが、幸運にも慈は年上の同性から可愛がられる見た目をしている。身長一六二センチの小柄な身体は高齢ゲストより更に小さいことが多くて、彼らもこの男は護ってやらねばと思ってしまうのだろう。みな慈に親切にしてくれる。そうして、電子血圧計ではない古いタイプの血圧計をネタにしながらしばらく話して和んだところに、MCの新太が挨拶にやってくる。それがお約束で、ありがたいことに番組もいい雰囲気で回っている。
「逆に落語をよく知らない人間だからよかったみたいだよ。慈との雑談で和んだって言っていたし」
着物から私服に着替える新太とこうして雑談をする時間が好きだ。もう二十年近く仕事で着物を着ている新太は手早く着替えて、脱いだものも綺麗に畳んでしまう。流石に着物の扱いは彼に敵わないから、それには手を出さない。新太はそんな慈の気遣いのバランスが好きだと褒めてくれる。
夜の受付を通って並んでテレビ局を出た後は、近くのコインパーキングに駐めてあった慈の車で、新太を彼の部屋まで送った。いつもは夕方に終わるが、今日はトラブルが重なり、もう九時を過ぎている。交通機関の乱れで虎丸の入りが遅れて、その後機材トラブルが発生したのだ。結果的に、自分の遅刻も悪かったのだからと長時間の拘束に付き合ってくれた虎丸のお陰で救われたが、その分彼の傍に長くいなければならなかった慈は緊張で疲れてしまった。
漸く収録が始まったあとも、新太の頼みでスタッフへの差し入れのお菓子を買いに行ったり、忙しい一日だった。だがそれで新太の評価が上がるのならそれでいい。
「来週も収録があるから、ゲストの資料は今度部屋に来たときに渡すね」
「はい。高齢の方ですか?」
「そう。虎丸師匠より上」
収録は土曜日と決まっているが、毎週あるとは限らず、ゲストの都合に合わせて調整する。師匠たちの気を悪くしないために二本撮りはしない。それが番組のオファーを受けたときの新太の唯一の条件。そんな気遣いができる彼が好きなのだ。
「では、また部屋に行きます。来週も水曜日でいいですか?」
「うん、大丈夫。今日はほんとにありがとう。あ、そうだ」
マンションの前で、シートベルトを外した彼が鞄を探る。
「これ、また買ってきた」
空いた時間に、今ではもう珍しい聴診器と水銀計で測るタイプの血圧計を片付けながら、
番組内容は至ってシンプルで、新太とゲストが向かい合って話をするだけ。だからこそMCの実力が試されるというもので、もう六年続いているということは、新太の実力は制作側にも視聴者にも伝わっているということだ。もちろん彼の本業は落語家で、テレビ出演などしなくても、彼の実力は充分評価されている。
鏡とライトがついたメイク台が二つ並び、その奥半分が畳敷きになっている楽屋で、手持ち無沙汰になって、なんとなく片付けと掃除を始めてしまった。そこで廊下側からざわざわと人の声が近づいてくる。どうやら漸く収録が終わったらしい。
深夜に放送されるたった十分の番組だが、収録は二時間近く掛かるのが普通だった。新太とゲストの話の中で特にいい部分を選んで十分に編集する。収録に携わるようになった当初は驚いたが、今では長寿番組を作るためには当然だと思うようになった。新太はもちろん、カメラマンも編集もみなプロだ。それを思えば、自分の不確かな立場が心許ない。いや、今の生き方に決して不満はないのだけれど。
「お疲れ、慈」
「お疲れさまです。遅くまで疲れたでしょう?」
「うん。でも無事に終わってよかった」
ドアを開けて待っていれば、人懐っこい笑顔で新太が入ってきた。この番組用に作った濃いグレーの着物がよく似合う、慈の憧れの男性だ。
「スタートが遅れて
「お役に立てたのならよかった。虎丸師匠なんて大御所すぎて、俺みたいな落語と無関係の人間が近づいていいのかって心配したんですけど」
番組では新太の先輩の噺家がゲストになることが多い。落語界の大御所ともなれば高齢の人間が多くて、収録前の体調管理が必要になる。という訳で、慈が楽屋を訪ねて血圧を測りながら雑談をして、具合の悪いところはないか聞いておく。初対面の人間と話すのは得意ではないが、幸運にも慈は年上の同性から可愛がられる見た目をしている。身長一六二センチの小柄な身体は高齢ゲストより更に小さいことが多くて、彼らもこの男は護ってやらねばと思ってしまうのだろう。みな慈に親切にしてくれる。そうして、電子血圧計ではない古いタイプの血圧計をネタにしながらしばらく話して和んだところに、MCの新太が挨拶にやってくる。それがお約束で、ありがたいことに番組もいい雰囲気で回っている。
「逆に落語をよく知らない人間だからよかったみたいだよ。慈との雑談で和んだって言っていたし」
着物から私服に着替える新太とこうして雑談をする時間が好きだ。もう二十年近く仕事で着物を着ている新太は手早く着替えて、脱いだものも綺麗に畳んでしまう。流石に着物の扱いは彼に敵わないから、それには手を出さない。新太はそんな慈の気遣いのバランスが好きだと褒めてくれる。
夜の受付を通って並んでテレビ局を出た後は、近くのコインパーキングに駐めてあった慈の車で、新太を彼の部屋まで送った。いつもは夕方に終わるが、今日はトラブルが重なり、もう九時を過ぎている。交通機関の乱れで虎丸の入りが遅れて、その後機材トラブルが発生したのだ。結果的に、自分の遅刻も悪かったのだからと長時間の拘束に付き合ってくれた虎丸のお陰で救われたが、その分彼の傍に長くいなければならなかった慈は緊張で疲れてしまった。
漸く収録が始まったあとも、新太の頼みでスタッフへの差し入れのお菓子を買いに行ったり、忙しい一日だった。だがそれで新太の評価が上がるのならそれでいい。
「来週も収録があるから、ゲストの資料は今度部屋に来たときに渡すね」
「はい。高齢の方ですか?」
「そう。虎丸師匠より上」
収録は土曜日と決まっているが、毎週あるとは限らず、ゲストの都合に合わせて調整する。師匠たちの気を悪くしないために二本撮りはしない。それが番組のオファーを受けたときの新太の唯一の条件。そんな気遣いができる彼が好きなのだ。
「では、また部屋に行きます。来週も水曜日でいいですか?」
「うん、大丈夫。今日はほんとにありがとう。あ、そうだ」
マンションの前で、シートベルトを外した彼が鞄を探る。
「これ、また買ってきた」
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