明日会えない恋人

 そう言えば彼が一つ息を吐いて、仕方ないなと言った。弟と出掛けるなんて、就職前の時期の彼には迷惑でしかなかっただろう。だが一度だけ、彼が一人で暮らすようになればもう迷惑は掛けないからと、そんな想いが叶って二人で遊びに行くことになった。
 選んだのはビルの中にある水族館だった。映画館が併設されて、上の階はホテルの客室という大人向けのデートスポット。照明が落とされた青の空間を歩くうちに、二人とも無言になってしまう。年上の彼に相応しい場所を考えたつもりだが、退屈だっただろうか。そう不安になったところで彼が静かに言葉を紡ぐ。
「いつも母さんの相手を任せて悪いな。話し好きだから、結構大変だろ?」
 オレンジの魚がひらひらと泳ぐ水槽の前だった。魚を追うように見上げたまま言われて、貢本はその静かな顔を見つめる。
「そんなこと思ってないよ。憎まれても仕方がない子どもだったのに、母さんはずっと優しかったから。感謝している」
「謙」
 こちらに向いた顔が哀しげで、しまったと思った。こんなことを言うつもりはなかった。どう誤魔化せばいいだろうと思う貢本の前で、彼が穏やかな表情に戻って言う。
「謙も謙のお母さんも悪くない。もちろんうちの母親もな。だから、憎まれて当然だなんて思うな」
「兄さんは?」
 彼が優しいから、つい聞いてしまう。
「兄さんは突然弟が現れて、邪魔だと思わなかった?」
 ずっと心に引っ掛かってきたことだった。両親の愛情を独り占めしていたのに、突然弟がやってきて不満はなかったのかと、不安に思うことがあったから。
「思う訳ないだろ」
 当然のように言われて張り詰めていたものが解けた。
「謙は綺麗だからな。見た目も心も」
 もったいない言葉に鼓動を速めてしまう。見上げた先には、もうとっくに大人の男の顔があった。それでも、初めて有村の家に来たときの少年の面影も残っている。五歳のときに見た彼の姿に一目で心を奪われた。小学生で既に十未来グループの後継者のオーラを纏った彼に圧倒された。こんな人間の傍にいたいと思った。短い時間でもこうして隣にいられる自分が幸せだと思う。
「……俺ね、兄さんが好き」
 コップから水が溢れるように言葉が零れた。家族としてという意味にも恋愛感情でという意味にも、どちらにも取れるように言った。自分でも、まだきちんと分かっていた訳ではない。それでも伝えたかった。
「兄さんと会えて、一緒に暮らせてよかった」
「そっか」
 彼の反応は無難で、それで充分だった。四月からは離れる。寂しいけれど、自分も学校を卒業したら彼の手助けができればいい。どんな仕事でもいい。彼の成功を願いながら、時々姿が見られる場所にいたい。友人でも恋人でもない兄弟だから、これからもずっと、完全に離れてしまうことはない。その幸運を噛みしめていよう。
「謙」
 水槽に触れた手に、そっと彼の手が重ねられた。顔を上げてみるが、彼は静かな表情のまま水槽を見上げている。だから貢本も黙って宝石みたいな魚を見つめた。黙っているから、胸の音が聞こえてしまいそうで困ってしまう。
「いつか、二人で暮らせたらいいな」
 ごく自然に彼が言った。
「父さんの会社の仕事をして、休みの日は二人でのんびりして、一ヵ月に一度くらいは母さんの様子を見に行く。そういうの、幸せだよな」
 その言葉に、穴が開きそうなほど彼の顔を見つめてしまった。少しは同じ気持ちでいてくれたのだろうか。自分と一緒にいたいと思ってくれるのだろうか。それならどんなにいいだろう。忙しい思考と裏腹に言葉は出ない。そんな貢本に彼がふっと笑う。
「他の水槽も見に行こう」
 頷けば手を引かれて、並んで館内を歩いた。青く光る水槽を見て回る間、その手が離されることはない。
 有村からの贈りもののような時間だった。多分弟に対する優しい嘘で、それでも貢本には一生分の充電になった。
 勝手に名前を使ってしまった鈴木くんに、心でありがとうと告げていた。
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