明日会えない恋人

 久野とは何度か会った。
 彼は大きな病院の勤務医だったが、上の権力闘争に巻き込まれるのが嫌になって、今はいくつかの病院の非常勤を掛け持ちしてのんびり仕事をしていると言う。なんでもさらりと躱すタイプに見えて、実はそうでもないらしいと知った。それでも職業柄、彼は人の話を引き出すのが上手い。とても興味深そうに聞いてくれるから、貢本もつい彼の質問に答えてしまう。
「じゃあ、その恋人のトモヤくんは、時々貢本さんの部屋に来て泊っていったりするんだ」
 その日も仕事終わりに二人で食事に行った。気取らないフレンチビストロで向き合い、聞かれるまま彼の質問に答える。
「はい。仕事が大変らしくて、すぐ帰ってしまうことが多いですけど」
 自惚れすぎかなとも思うが、久野に恋愛感情を持たれては困るから、知哉のこともありのままに話していた。
「付き合い始めたのは一年くらい前?」
「そうです。父の葬儀のばたばたが終わった頃、彼がふっと現れて」
「紘一朗に恋人の話をされたのもその頃だね?」
「そうですけど」
 有村が叔父から紹介された女性と付き合うと言った頃のことだ。何故そんなことを聞くのだろうと思うが、別に困ることでもないから素直に答える。
「恋人の話はショックだった?」
 聞かれて当時を思い出してみる。どうだっただろう。驚いたことは覚えているが、その後どんな気持ちになって、有村になんと言ったのかは記憶が怪しい。覚えていないということは、たいしたやりとりはしていないのだろう。
「兄さんも大変だねとか、叔父さんの紹介なら断れないねとか、そんなことを言った気がしますけど」
「そう」
 グラスのミネラルウォーターを口にして、彼が何かを考えるように一度言葉を止める。
「そうだ。今度の日曜水族館に行かない? 割引券みたいなのを貰ってさ」
 だがすぐに明るい調子に戻って彼は言った。
「水族館、ですか」
 それはいよいよデートのようでよろしくない。
「あの、俺の役目は久野さんの人柄を見ることですよね? もう久野さんがうちの会社に来ることに問題はないと思いますので、これ以上二人で会うのは」
「いや、いいじゃない。友達が増えることはいいことでしょう? それに割引券を捨てるのも悪いし、一人で水族館ってのも格好悪いし」
 軽い調子で言われて、頑なに断るのもおかしな気がした。考えてみれば特に予定がある訳でもないし、彼と過ごすことでデメリットもない。
「じゃあ、少しだけ」
「よかった。じゃあ、また連絡する。駐車場があるから、日曜は車で迎えに行くね」
「ありがとうございます」
「俺の前ではもっと気楽にしていていいよ。紘一朗といるより楽でしょう?」
 さらりと言われて苦笑した。確かに兄で社長でもある彼といれば、ある種の緊張感がある。それにプライベートな部分でも、貢本は有村に複雑な気持ちを持っていたりする。
「帰ろうか。タクシーで送るよ」
「あ、すみません。ぼーっとしていて。今日は支払いは俺が」
「いいよ。こういうときは男を立てるものだよ」
 楽しげに言って彼はレジに向かってしまう。自分も男だと思うが、そんな言い方をされれば甘えてしまう。やはり彼は相手との壁をなくすのが上手い。
 遠回りをして貢本を家まで送り届けて、彼はタクシーの窓から手を振って帰っていった。
 お医者様で見た目も性格もいい彼が、何故自分に構っているのだろう。有村に逆らえないという訳でもなさそうだ。彼と出掛けたい女性ならいくらでもいそうなのにと、不思議に思いながら部屋に帰る。
 知哉は来ていなくて、いつも彼が座っているリビングの椅子に今日は自分が座った。
「水族館か」
 テーブルに肘をついて、いつも彼がしているように腕に顔を寄せる。そこでふと、中学生の自分を思い出した。
 高校受験が終わったあと、有村と水族館に行ったことがある。四月に就職して家を出てしまう彼と離れるのが寂しくて、思い出を作っておきたいと思ったのだ。
 七歳の年の差よりずっと大人びていて、些細なことに動じない彼は憧れだった。腹違いの弟に辛く当たることもなく、困ったときにはさりげなく手を貸してくれた。彼と二人で出掛けてみたい。素直にそう言えなくて、子どもなりに考えたのだ。
 同じ学校の好きな人に失恋したから、一緒に行く筈だった水族館についてきてほしい。考えて考えて、そう有村を誘った。
「お前は男子校だろ?」
 クールな返事が返されて、嘘を重ねるしかなくなってしまう。
「同じ男でも、好きになることはあるでしょう?」
 もとから自分は同性が好きなのかもしれないと思うことはあった。有村に気味悪がられたらどうしようと思いながら、引き返せなくて、咄嗟に思いついた友人の名前を上げる。
「鈴木くんっていうんだ。同じ図書委員で、いいなと思っていたんだ。でも女の子の彼女ができたみたいだから」
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