明日会えない恋人
そう言われれば嫌とは言えない。
「分かりました」
「じゃあ、早速連絡先を交換しよう」
ごく自然に言われて携帯を預ければ、久野は手早く連絡先を登録してしまった。
「明日、はちょっと急だから、明後日二人で出掛けようか。明日、貢本さんが起きた頃に連絡するから、そこで予定を決めよう?」
「……はい」
「まだ寝ていたら無視してくれていいから。俺、忍耐力には自信があるんだ」
どんどん話が進んで、どうしていいか分からなくなった。顔を繕うこともできなくなった貢本に気づいて、有村が腕を取って立たせてくれる。
「今夜は連れて帰る」
「えー、貢本さんは俺に任せて、紘一朗が帰ればいいのに」
そんな久野の冗談を軽く流して、有村がさっさと支払いを済ませてしまった。
「悪かったな、急で」
二人きりになったタクシーで言われて首を振る。
「仕事ですよね? それなら問題ありません」
「そうだな」
念を押したつもりが、彼からは本心の見えない返事が返ってくるだけだ。
「とろこで、月見 さんとはどうなっているんですか? 父さんが亡くなって一年だし、もう具体的な話が出てもいいんじゃないですか?」
珍しくこちらから聞いてしまった。有村には、叔父の勧めで結婚前提で付き合っている女性がいる。
「ああ。ちゃんと考えているよ」
その話にも曖昧に応えて、彼は窓の外に顔を向けてしまった。その凛々しい横顔を見れば何も言えなくなる。自分は彼の会社の従業員で、有村家で面倒を見てもらった人間だ。偉そうなことを言える立場ではない。
先に貢本のマンションに到着して、すぐ前の道で降りることになった。
「久野に連絡してやれよ」
「ええ。きちんと仕事をさせていただきます」
「おい、謙」
内心ムッとして振り向かずに部屋に戻ろうとして、腕を引かれた。
「食事、ごちそうさまでした」
わざと微笑んで言って彼の手を払い、そのままさっさと建物に向かう。胸にもやもやとしたものが溜まって、早く彼と離れてしまいたかった。それでもエントランス前でつい振り向いてしまえば、タクシーは既に発車して見えなくなっている。彼の自分への興味の度合いのように思えて、もやもやが大きくなる。
「知哉、いる?」
部屋に帰れば、今夜もリビングのテーブルに彼はいた。
「聞いて。兄さんが俺に男を宛てがおうとしているんだ。俺には知哉がいるって言っているのに酷いでしょう?」
顔を見た途端に愚痴を言うなんて情けないと分かっている。それでもそうせずにいられなかった。ゆっくりと眼鏡を掛け直した彼が、何も言わずに手招きしてくれる。
「精神科医だかなんだか知らないけど、余計なお世話なんだよ。それならさっさと自分の結婚話を進めればいいのに」
有村への不満が止まらない貢本を、知哉がそっと抱き寄せてくれる。空気みたいに自然に傍にいる彼を感じて、そこで漸く心が落ち着きを取り戻す。
「連絡なんて無視しようかな」
半分本気で言って見上げれば、彼が子どもの我が侭を見るような困り顔でいた。
「嘘だよ。一応仕事だし、ちゃんとやる」
素直に言えば、彼がまた抱き寄せて髪を撫でてくれる。
「今日、泊っていける?」
断られるのが怖くて胸に顔を押しつけたまま聞けば、背中を抱く腕に力が籠もった。よかった、二人で一晩過ごせるのは久しぶりだ。そう思えば、有村の態度もよく分からない精神科医もどうでもよくなって、ただ知哉のことを想う。
「知哉、好き」
ベッドで身体を寄せ合い、穏やかな気持ちで眠りに就いた。元々口数の多い方ではない知哉は、ただ黙って抱きしめてくれるだけだ。それでも、それが何より心の回復に効いてくれる。
翌朝は幸せな気持ちのまま目覚めて、彼が寝ているうちにキッチンに立った。
知哉は大手の商社に勤めているが、今は貢本の部屋に近い食品メーカーに出向しているらしい。あまり仕事のことには触れてほしくないようだから、詳しくは聞かずにいる。別に全部知る必要はない。こうして時々一緒にいてくれれば充分なのだ。
とりあえずお湯を沸かして紅茶の用意をした。知哉が好きなメニューはなんだろう。そういえば中学時代、図書室のベランダで並んで弁当を食べた。あのときは確か、中学生にもなってミートボールが好きで恥ずかしいけれど、子どもらしいことを言っておけば母親が喜ぶからと、子どもなんだか大人なんだか分からないことを言っていた。そんな思い出に浸っていたところで携帯にメッセージが届く。こんな朝から誰だろうと思ったが、画面を見ればもう十時半で、然程早くもないことに気がつく。相手は久野だ。
『おはようございます。もう起きていたでしょうか? 昨日はお会いできてよかったです』
昨夜は軽いイメージだったが、意外に丁寧な言葉に驚いた。こちらも失礼のないように返せば、またすぐに返事が来る。
『明日、ランチでもどうですか? 貢本さんの都合のいい場所まで車で迎えに行きます』
本当に誘われて困ってしまった。だが彼の人柄を見て有村に報告すればいいだけなら、一、二時間付き合って帰ってくればいいのだろう。
ぜひご一緒させてくださいと返せば、すぐにいくつか店の候補が送られてきた。遠出は気が進まないから、家から一番近い店にして時間も決めてしまう。手早くやりとりを終えたつもりなのに、思ったより時間が経っていた。そろそろ知哉を起こそうと寝室に戻れば、そこにもう彼の姿はない。
「知哉? 嘘、どこに行った?」
混乱して、バスルームを見てもう一度寝室に戻った。やはり彼はいなくて、意味もなくシーツを捲ってしまう自分に、心が一度に沈んでしまう。
「知哉」
久野と食事に行くと知って気を悪くしたのだろうか。いや、昨日愚痴で全部話したが怒ってはいなかった。それならどうして。
そこでふと、先程開けたばかりの紅茶の箱に目が行った。
「……これか」
呟いて、彼がいつもお茶も飲まずに帰る理由も理解する。この紅茶は有村がくれたもので、だから知哉は気に入らなかったのだ。彼はいつのまにか知っていたのだろう。そう思えば酷い気持ちも落ち着いて、次はこんな失敗をしまいと思う。
明日久野と会った帰りに買いものに行こう。知哉が好きな飲みものはなんだろう。色々準備をして、今度来たときに彼の好みを聞けばいい。そう思えばスッと心が軽くなる。帰りに知哉のための買いものをすると思えば、久野との昼食も憂鬱ではなくなる。
昨日一晩一緒にいてくれた。そのことに感謝しよう。また彼は来てくれる。
そう思いながら、一人の朝食の支度に掛かるのだった。
「分かりました」
「じゃあ、早速連絡先を交換しよう」
ごく自然に言われて携帯を預ければ、久野は手早く連絡先を登録してしまった。
「明日、はちょっと急だから、明後日二人で出掛けようか。明日、貢本さんが起きた頃に連絡するから、そこで予定を決めよう?」
「……はい」
「まだ寝ていたら無視してくれていいから。俺、忍耐力には自信があるんだ」
どんどん話が進んで、どうしていいか分からなくなった。顔を繕うこともできなくなった貢本に気づいて、有村が腕を取って立たせてくれる。
「今夜は連れて帰る」
「えー、貢本さんは俺に任せて、紘一朗が帰ればいいのに」
そんな久野の冗談を軽く流して、有村がさっさと支払いを済ませてしまった。
「悪かったな、急で」
二人きりになったタクシーで言われて首を振る。
「仕事ですよね? それなら問題ありません」
「そうだな」
念を押したつもりが、彼からは本心の見えない返事が返ってくるだけだ。
「とろこで、
珍しくこちらから聞いてしまった。有村には、叔父の勧めで結婚前提で付き合っている女性がいる。
「ああ。ちゃんと考えているよ」
その話にも曖昧に応えて、彼は窓の外に顔を向けてしまった。その凛々しい横顔を見れば何も言えなくなる。自分は彼の会社の従業員で、有村家で面倒を見てもらった人間だ。偉そうなことを言える立場ではない。
先に貢本のマンションに到着して、すぐ前の道で降りることになった。
「久野に連絡してやれよ」
「ええ。きちんと仕事をさせていただきます」
「おい、謙」
内心ムッとして振り向かずに部屋に戻ろうとして、腕を引かれた。
「食事、ごちそうさまでした」
わざと微笑んで言って彼の手を払い、そのままさっさと建物に向かう。胸にもやもやとしたものが溜まって、早く彼と離れてしまいたかった。それでもエントランス前でつい振り向いてしまえば、タクシーは既に発車して見えなくなっている。彼の自分への興味の度合いのように思えて、もやもやが大きくなる。
「知哉、いる?」
部屋に帰れば、今夜もリビングのテーブルに彼はいた。
「聞いて。兄さんが俺に男を宛てがおうとしているんだ。俺には知哉がいるって言っているのに酷いでしょう?」
顔を見た途端に愚痴を言うなんて情けないと分かっている。それでもそうせずにいられなかった。ゆっくりと眼鏡を掛け直した彼が、何も言わずに手招きしてくれる。
「精神科医だかなんだか知らないけど、余計なお世話なんだよ。それならさっさと自分の結婚話を進めればいいのに」
有村への不満が止まらない貢本を、知哉がそっと抱き寄せてくれる。空気みたいに自然に傍にいる彼を感じて、そこで漸く心が落ち着きを取り戻す。
「連絡なんて無視しようかな」
半分本気で言って見上げれば、彼が子どもの我が侭を見るような困り顔でいた。
「嘘だよ。一応仕事だし、ちゃんとやる」
素直に言えば、彼がまた抱き寄せて髪を撫でてくれる。
「今日、泊っていける?」
断られるのが怖くて胸に顔を押しつけたまま聞けば、背中を抱く腕に力が籠もった。よかった、二人で一晩過ごせるのは久しぶりだ。そう思えば、有村の態度もよく分からない精神科医もどうでもよくなって、ただ知哉のことを想う。
「知哉、好き」
ベッドで身体を寄せ合い、穏やかな気持ちで眠りに就いた。元々口数の多い方ではない知哉は、ただ黙って抱きしめてくれるだけだ。それでも、それが何より心の回復に効いてくれる。
翌朝は幸せな気持ちのまま目覚めて、彼が寝ているうちにキッチンに立った。
知哉は大手の商社に勤めているが、今は貢本の部屋に近い食品メーカーに出向しているらしい。あまり仕事のことには触れてほしくないようだから、詳しくは聞かずにいる。別に全部知る必要はない。こうして時々一緒にいてくれれば充分なのだ。
とりあえずお湯を沸かして紅茶の用意をした。知哉が好きなメニューはなんだろう。そういえば中学時代、図書室のベランダで並んで弁当を食べた。あのときは確か、中学生にもなってミートボールが好きで恥ずかしいけれど、子どもらしいことを言っておけば母親が喜ぶからと、子どもなんだか大人なんだか分からないことを言っていた。そんな思い出に浸っていたところで携帯にメッセージが届く。こんな朝から誰だろうと思ったが、画面を見ればもう十時半で、然程早くもないことに気がつく。相手は久野だ。
『おはようございます。もう起きていたでしょうか? 昨日はお会いできてよかったです』
昨夜は軽いイメージだったが、意外に丁寧な言葉に驚いた。こちらも失礼のないように返せば、またすぐに返事が来る。
『明日、ランチでもどうですか? 貢本さんの都合のいい場所まで車で迎えに行きます』
本当に誘われて困ってしまった。だが彼の人柄を見て有村に報告すればいいだけなら、一、二時間付き合って帰ってくればいいのだろう。
ぜひご一緒させてくださいと返せば、すぐにいくつか店の候補が送られてきた。遠出は気が進まないから、家から一番近い店にして時間も決めてしまう。手早くやりとりを終えたつもりなのに、思ったより時間が経っていた。そろそろ知哉を起こそうと寝室に戻れば、そこにもう彼の姿はない。
「知哉? 嘘、どこに行った?」
混乱して、バスルームを見てもう一度寝室に戻った。やはり彼はいなくて、意味もなくシーツを捲ってしまう自分に、心が一度に沈んでしまう。
「知哉」
久野と食事に行くと知って気を悪くしたのだろうか。いや、昨日愚痴で全部話したが怒ってはいなかった。それならどうして。
そこでふと、先程開けたばかりの紅茶の箱に目が行った。
「……これか」
呟いて、彼がいつもお茶も飲まずに帰る理由も理解する。この紅茶は有村がくれたもので、だから知哉は気に入らなかったのだ。彼はいつのまにか知っていたのだろう。そう思えば酷い気持ちも落ち着いて、次はこんな失敗をしまいと思う。
明日久野と会った帰りに買いものに行こう。知哉が好きな飲みものはなんだろう。色々準備をして、今度来たときに彼の好みを聞けばいい。そう思えばスッと心が軽くなる。帰りに知哉のための買いものをすると思えば、久野との昼食も憂鬱ではなくなる。
昨日一晩一緒にいてくれた。そのことに感謝しよう。また彼は来てくれる。
そう思いながら、一人の朝食の支度に掛かるのだった。