明日会えない恋人

 金曜日。仕事帰りに有村と待ち合わせをして、タクシーで何度か行ったことのあるレストランに連れていってもらった。
 他のテーブルと距離があって、プライバシーを充分に保てる席で、綺麗な夜景まで見下ろせてしまう。相手が弟ならこんな席を予約しなくてもいいのにと、いつも思うことをまた思う。
「総務、一人で忙しくさせて悪いな」
 カメリエーレが離れたタイミングで言われて、内心どきりとした。立花が辞めることは報告してあるから、いい機会だから別の部署に異動しろと言われるだろうか。それならなんと答えようか。そう瞬時に頭を働かせる。
「トミライで働いてくれと言ったのは俺だからな。いつも感謝しているんだ」
 だが彼の口から出たのは別の言葉だった。まっすぐ見つめられて低めの声を向けられれば、兄で社長だというのに、その魅力に当てられて鼓動が速くなる。コントラストの強い目が、どんなことでも見破ってやると言っているようだ。そんな彼だから、若い社長でも多くの人間がついていこうと思うのだ。
「兄さんの役に立っているならよかったです」
 返す言葉がぎこちなくなって、そこにアンティパストが運ばれてきた。ふっと笑われれば胸の音が速さを増して、料理に気を取られたフリをする。貢本が有村の魅力に参っていることを彼は知っている。それでもからかうようなことはなくて、言葉にされない褒め言葉として受け取ってくれる。そんな大人の余裕を見せられれば、貢本は更に彼の魅力に嵌ってしまう。いつもの堂々巡りで、ハムと野菜の皿が置かれたところで、彼の方が話を変えてくれる。
「食事の後、場所を変えて少し付き合ってくれるか? 会ってもらいたい男がいるんだ」
「もちろん。電話でも言っていましたから、そのつもりで来たんです。どうせならその人も食事に誘えばよかったのに」
 普通の感覚で言えば、彼が悪戯っぽい顔になった。
「久しぶりだし、食事くらいは二人でしたいと思ってな。それに奴はこんな小洒落た場所で食事をする人間じゃない」
 どうやら親しい人間らしいが、それより砕けた表情を見せてくれたことに嬉しくなった。叔父がトップである十未来グループの一つとはいえ、彼の若さで会社を一つ任されているのだ。不用意に笑うこともできない厳しさを知っているから、弟の自分に素を見せてくれれば安堵する。
 少しだけ不安だったが、今夜の彼は知哉の話はしなかった。ぽつぽつと近況や母親のことを語りながら食事をして、その後近くのバーに連れていかれる。
 有村について奥のテーブル席に向かえば、そこに華やかな顔立ちの男が座っていた。ぎりぎり結べるくらいまで伸ばした髪を後ろで縛った、普通の会社員には見えない男性。だが服装は有村と同じくらいきちんとしている。
「遅くなったな」
「ほんとだよ。多忙な俺を待たせるなよ」
「今は無職みたいなもんだろ」
「非常勤には行ってるよ」
 軽口を交わした後で、有村が彼を紹介してくれた。
「俺の高校時代からの友人の久野春人くのはるとだ。一応、精神科医をしている」
「一応ってなんだよ。ちゃんと医者だよ。初めまして、貢本さん。紘一朗からよく話は聞いています」
「初めまして。貢本謙といいます」
 優しく笑って言われるから、こちらも名乗って頭を下げた。
「紘一朗の言う通り、ほんとに綺麗な人だ。放っておけないのも納得だ」
 有村の隣に座って久野と向き合えば、もう既に酔っているのか、彼が楽しげに言う。
「余計なことはいい。それでな、謙」
 手早く飲みもののオーダーを済ませて、有村が貢本に顔を向ける。
「この男をしばらく観察してほしいんだ」
「観察?」
 真顔で言われた言葉の意味が分からなかった。
「ほら、会社で社員のストレス管理が義務化されただろ? 福利厚生の一つとして、数ヵ月に一度、職場で精神科医の面談をしようと思っているんだ。それで知り合いのこいつに頼もうかと思ったんだが、悪人だったり酷い藪医者だったりしたら問題だろ? それで時々お前にこいつと過ごしてもらって、仕事を任せていい人間かを判断してほしいんだ」
「兄さんの友人なら問題ないと思いますけど」
「いや。友人だときちんとした判断ができなくてな」
 有村にしては随分と乱暴な話だと思った。
「具体的には何をすればいいんですか?」
「難しく考えなくていい。これからたまにこいつと食事に行ったり、休日に出掛けたりして、その中でこいつの人柄を判断してほしいんだ。時間も場所も全部こいつに任せておけばいいし、忙しい日は断ってもいいから」
 それじゃデートじゃないか、という貢本の心の声に気づいたように、向かいの久野が明るく言葉を挟む。
「こんな美人とデートできるなんて役得だな。夢中になってしまいそう」
「ほら、こういうやつだから心配なんだ。スタッフの管理をする総務部員として、頼む」
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