明日会えない恋人

 声を掛ければ顔を上げて、テーブルに投げてあった黒縁眼鏡をして笑ってくれる。彼は中学のときからずっとこの眼鏡をしている。
「お帰り、謙。お疲れ」
 その言葉だけで貢本は回復する。
「知哉、お腹空いた? たまには一緒にご飯食べよう?」
 そう言って、手を洗って支度をしようとする。だがそこでその日も電話が鳴った。有村だと分かっているから出ない訳にはいかない。電話で話す様子を見られたくなくて、目顔でごめんと言ってから寝室に入ってしまう。
「今日もあの男が来ているのか?」
 前置きなく彼は言った。移動中なのか、傍を車の走り抜ける音がする。
「兄さん、どうしたの? そうだ、今日も母さんのところに行ってきて」
「あの男がいるのかと聞いている」
 普段クールな彼が珍しく苛立っていた。その様子に、貢本は素直にいると返すしかない。
「今度の金曜の夜、空けておいてもらっていいか」
 怒りを抑えるように彼が言った。
「うん。大丈夫ですけど」
「食事に行こう。お前に会ってもらいたい男がいる」
 彼に逆らおうと思ったことはなかった。分かったと返せば、まだ少し不機嫌なまま、彼の方から電話を終えてくれる。
「ごめん、知哉。これからご飯一緒に……」
 慌ててリビングに戻って、そこで泣きたくなった。今夜も彼は帰ってしまった。無駄だと知りながらベランダに出てみるが、下の通りにももう姿はない。
「どうして」
 声が零れた。
 どうして有村は知哉がいるときに電話をしてくるのだろう。どうして知哉は有村の電話に過剰に反応するのだろう。
 もう食事をする気力もなくて、ぼんやりとベッドに入って目を閉じるしかなかった。
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