明日会えない恋人

 慌ただしい月末を過ごして、九月初めに立花との時間を作った。空いている会議室に入って、テーブルを挟んで向き合う。軽く世間話をした後で、彼女が緊張気味に告げてきた。
「あの、実は結婚することになりまして」
「そっか。それはおめでとう」
 予想していたことなので穏やかに応じれば、彼女も安堵の表情を見せる。
「それで急なんですけど、九月末で退職したいんです」
「え……」
 それは予想外だった。この会社は福利厚生がしっかりしているから、結婚や出産をしても働き続けるスタッフがほとんどなのだ。
「九月末まではきちんと仕事をします。貢本さんは仕事を全部知っているから引継ぎすることはないと思うんですけど、もし急遽新人が入ることになったら、その指導係もやりますから」
 貢本が機嫌を損ねたと思ったのか、彼女が慌てて言葉を重ねる。
「あ、いや、全然怒ってないんだ。急だからちょっとびっくりして。今度改めてお祝いさせてね」
「ありがとうございます。貢本さんと一緒に働けてよかったです」
 社交辞令だとしても、そう言われれば嬉しかった。二人で会議室を出て、ロッカー室に寄ると言う彼女と別れて、先に執務室に戻る絨毯の廊下を歩いていく。
「……だから、うちの会社はミライクイックに吸収されるらしいのよ」
 給湯室の前で若いスタッフの話し声が聞こえて、つい足が止まった。
「じゃあ、人員削減になるかな」
「それが、有村社長がミライクイックの社長になるんだって。だから最低でもクビにはならないんじゃないかな」
 不自然にならないように壁に身を寄せて、続きを待ってしまう。
 具体的ではないが、そんな話は聞いていた。今貢本がいるのはトミライカードというキャッシングカードを扱う株式会社トミライだ。もとは母体であるリース会社、株式会社十未来の上客の妻や子どもたちに、お小遣い感覚でキャッシングを利用してもらおうというカードだから、利用者もそれほど多くない。対して株式会社ミライクイックが扱うミライクイックカードは、一般の消費者向けにバンバン宣伝していて契約数も多い。一つのカードにしてしまおうという会社の判断は妥当だろう。有村が社長になるなら問題はない。
「オフィスも一新かな」
「ここはいいビルだし、そのままなんじゃないかな。でも一応、部署の移動くらいは覚悟しておいた方がいいかもね」
 そこで彼女たちが動く気配がして、素早くその場を離れた。
 歩きながら、さて総務部主任の自分はどうなるだろうと考える。たった一人の部下の立花も今月で辞めてしまう。そうなればミライクイック側の総務部員たちがやってきて、自分は用なしになるだろうか。
 別にそれでも構わなかった。自分は有村の言うことを受け入れるし、彼が板挟みで困るようなら自分から辞める。有村が不自由なく仕事ができる環境を作ること。貢本の望みはそれだけなのだ。
 うっすらと転職活動のことを考えながら、何も知らない顔でデスクに戻った。
 仕事は問題なく終わり、その日も真沙子の病院に行くことにする。途中で本屋に寄って、彼女が好きな小説の続編を買った。病院の一階にコンビニはあるが、書籍の入荷は遅いから買っていけば喜ぶだろう。彼女の喜ぶ顔を想像しながら個室に向かう。
「あら、謙。今日も来てくれたの?」
 だが迎えられたベッドの上には、何故か既にその本があった。同じものを渡す訳にはいかなくて、本は鞄の中に留まることになる。
「誰か来たの? お友達?」
「ええ。まぁ、そんなところね」
 彼女は曖昧に答えて窓の外に顔を逸らしてしまった。その様子にピンとくる。有村が来たのだ。先日もそうだが、どうして隠そうとするのだろう。
「そうそう。今日いただいたお菓子は謙が好きなやつよ。謙も食べてね」
「いつもありがたくいただいているよ」
 入院中の彼女に問い質すようなことはしたくなくて、結局は黙った。しばらくなんでもない世間話をして、帰ることにする。
「じゃあ、また来るから」
「ええ。仕事、あまり無理しちゃダメよ」
「分かっている」
 そんな過保護な台詞に苦笑して、軽く手を振って病室を出る。
 ナースステーションの前を通るときに会釈をすれば、顔見知りの看護師がにこにこと笑って出てきてくれた。
「有村さん、このところリハビリしたいからお散歩に連れていってくれって言うんですよ」
「リハビリ?」
「そう。元気になって、やりたいことがあるんだって言って張り切っていてね。以前はもう静かに人生を終えるだけだ、なんて言っていたから、よかったなって思って」
「そうですか」
 親身に真沙子を思ってくれる看護師に頭を下げて病院を出た。彼女が元気になるのは嬉しいことなのに、少しだけ胸に苦いものがやってくる。
 有村が来たから、リハビリをする気になったのだろうか。どんなに心を尽くしても、やはり実の息子は違うのだろうか。そう思えばやはり少しダメージはある。渡せなかった本が入ったままの鞄がずしりと重い。用なし。昼間も浮かんだ言葉がまた浮かぶ。
 漸く家に帰り着けば、その日もテーブルに知哉が伏せていた。
「知哉」
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