明日会えない恋人

「大体こんなもんかな」
「ええ。ありがとう。あとはゆっくり自分でやるわ。休みの日に悪かったわね」
 最後に紘介の位牌を仏壇に収めた真沙子が、手を合わせてから振り向いて二人に言う。
「何を今更水臭いこと言ってるんだよ。荷物だってこんなに減らさなくてもよかったのに。もっと広い部屋にして、必要なものを全部運べばいいって言っただろ?」
「いいの、いいの。年寄りはものを減らさないとね」
「もう、年寄りとか言わないでよ。母さんはまだまだ若くて綺麗だよ」
「あら、謙はいい子ね」
 荷物の運び入れも掃除も業者に任せたからほとんどすることはなかったが、細々したものの片付けや、家具の配置直しを手伝っている。
「お昼は謙の好きなものにしましょうか。お寿司がいい? それともお肉?」
「母さんの好きなものでいいよ」
 小学生に言うように言われて苦笑すれば、すぐ後ろで有村も笑っていた。新調した白のレースのカーテンから春の日が差し込んでいる。引越しには申し分ない日で、彼女の笑顔を見ていれば幸せな気分になる。
 真沙子は病院を出てから一時元の家で暮らしていたが、病室に慣れた身には広すぎると言って、売却してセキュリティのしっかりしたマンションに引越すことにした。諸々の手続きが済んで、四月に漸く引越し完了となったのだ。
 近所の探索も兼ねて買いものに行き、買ってきたお寿司で簡単なお祝いになった。無理をしているのではないかと心配していたが、本当に体調はよさそうで安堵する。
「ひと月に一度くらいでいいから遊びに来てね。なんでも好きなものを用意するから」
 そんな言葉に送られて、三時を過ぎた頃に帰ることになった。
「そうだ。不動産屋の書類、分からないところがあるって言っていただろ? 俺も目を通しておくよ」
「本当? 助かるわ。待って、リビングにあるから」
「ああ、いいよ。俺が取ってくる」
 有村が部屋に戻ってしまったから、真沙子と玄関で待つことになった。なんでもない話をしていて、彼女がふと廊下の奥を確認するように目を向ける。
「内緒なんだけどね」
 まだ有村が戻らないと分かると、真沙子がそっと貢本に顔を寄せた。
「あの子に頼まれたのよ。謙を護るのに手を貸してほしいってね」
「俺を護る?」
「そう。ずっと悩んで体調も悪そうで、もう俺だけでは上手くいかない。だから元気になって、謙の母親をやってくれないかってね。初めてあの子に頭を下げられちゃったわ」
 意外な告白に言葉を失う。
「謙が悩んでいたことも知らなかったし、自分が病院で甘えた生活をしていることが恥ずかしくなってね。こんなとき力になってあげられなくて、どこが母親だって思って、それから退院しようと思って頑張ったのよ」
「そう、だったんだ」
 有村が真沙子から離そうとしているなんて、考えた自分が恥ずかしくなった。有村も真沙子も、これまで一度も貢本を邪険にしたことなどなかったのに。泣きそうになって顔を逸らせば、気づいた真沙子が優しく頭を撫でてくれる。
「私が手を出す前に、謙は自分で元気になったみたいだけどね」
「うん。色々悩みがなくなったんだ。今は元気だよ」
「これからは何かあったら頼ってね。母親なんだから」
「うん」
 そこで有村が戻ってくる。
「何内緒話しているんだ?」
「紘一朗には教えない」
「なんだよ、それ」
 そんな子どもみたいなやりとりをして、手を振ってエレベーターに向かう。
 コインパーキングまで行く路は、初夏に向かって暑いくらいだった。なんとなく足を止めて、桜が終わって緑の葉が輝く木々を見上げる。
「久野は真面目に働いているか?」
 同じように足を止めた彼が、からかうように聞いてきた。
「凄くきちんとした先生ですよ。就職活動で髪を切ったのは、未だに後悔しているみたいですけど」
「あいつらしいな」
 彼が笑う様子から、二人の仲のよさが伝わってくる。
 あれから久野は勤務医に戻り、貢本は二週に一度彼のいる病院に通うことになった。自分が普通ではなかったことの自覚から始めて、久野のカウンセリングを受ける。弱ったときにおかしなものを見ないように、彼のOKが出るまでは通院することになっている。
 仕事の方はミライクイックに一本化した会社で、貢本は変わらず総務主任でいられることになった。井知川たちの総務部メンバーが全員、十未来の秘書課に移動することになったのだ。本音は秘書の仕事をしたかったらしい彼女にも、喜ばしい話だろう。貢本も有村の会社で働き続けられることになって安堵している。一時は退職まで考えたが、やはり彼と一緒に働いていたいのだ。
「母さんの引越しも済んだし、俺らも一緒に住むか?」
「え?」
 そろそろ行こうかと歩き出したところで、有村がさらりと言った。
「一人にしておくと、お前は別の男のところに行ってしまうからな」
「紘一朗さん」
 タチの悪い冗談だと思った。だがそれが彼の本音なのだろう。貢本の状態を知っていながら、久野の言葉通りずっと黙っていてくれた。幻影に惑わされる弟が、さぞもどかしかっただろう。それでも最後の最後まで、貢本の身体を案じてくれた。
「広い部屋にしよう。大きなテレビを置いて、お茶を飲みながら映画を観よう。キッチンも大きなところにして料理をしよう。それ以上痩せないように色々食べないと」
「少しは太ったんですけど」
「まぁ、努力は認める」
 そう言った彼にそっと左手を取られる。そこに、まだ少し大きめだがきちんと収められた指輪がある。
「今日は俺の部屋に来るか」
 まだまだ弱い部分はある。それでも傍にいると決めた有村と生きていくために、努力を重ねていこう。自分の選択に後悔はない。
「はい。行きます」
 頷けば指を絡められて、貢本は漸く想いが叶った恋人と歩いていくのだった。  

✽END✽

→あとがき
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