明日会えない恋人

「謙」
 頭の中に静かに響くような声で呼ばれて目を覚ました。
 隣に目を遣れば、有村が貢本の肩を抱いたまま眠っている。統合の準備で忙しかったところに、こうして貢本のごたごたに付き合ってくれたのだ。それは疲れるよなと思って、申し訳なさと愛しさが入り混じった気持ちで彼の肌に触れる。
「謙」
 そこでもう一度呼ばれた。もう有村の声ではない。何故か自分と同じ声が呼び掛けてくる。
「少し話そう」
 頭の中で続く言葉に、応えなければいけないと思った。短くはない期間、救われていた部分もあった。だから今きちんと決別しておかなければ、辛いことがあったときにまた呼び寄せてしまう。
 起こさないようにそっと有村の腕から抜けて、ベッドを降りた。音を立てないようにベランダの窓を開けて、素足で出ていく。
「もう僕とは会ってくれないつもり?」
 ベランダの手すりを背にして、彼が穏やかな表情を見せる。
「それとも辛いときに呼び出せるようにキープしておく?」
 人の気持ちの先を考えて物を言う、彼らしい言葉だなと思った。だが彼に関する記憶は中学で止まっている。今現実の彼には家族もいて、全く違う男性なのだ。
「やめておく。知哉がいなくても、ちゃんとやれる人間になりたいから」
「現実はそんなに甘くないと思うよ。有村さんは今は本気で謙を護りたいと思っているかもしれない。でも会社の経営は簡単なことじゃないし、真沙子さんだって実の息子に普通の結婚をしてほしいと思うと思う。その後ろめたさに耐えられる?」
 貢本が作り上げた幻影だから痛いところを突いてくる。
「難しいと思う。でも頑張る」
 我ながら陳腐な言葉だった。だが今の貢本の正直な気持ちだ。
「辛くなる予感があるなら、避けておいた方が賢くない? 僕と来れば、ずっと悩みなく幸せに暮らせる」
「うん。そうだろうね」
 こんなとき、自分なら知哉と行く道を選ぶと思っていた。だが違った。必ず幸せになれる道があるとしても、例えこの先後悔することになっても、今は有村といたい。
「紘一朗さんの傍にいたいんだ」
 そう言えば少し呆れたように彼が笑った。明るくなり始めた空を背にして、彼の姿が浮き上がる。
「本当にいいの? 後悔するよ」
「いいんだ」
「そう。でも謙は落ち込みやすいから、また簡単に僕を呼び寄せちゃうかもしれないね」
 あるかもしれない。そうならないように、強くなれたらいいと思う。
「本当にいいの? これからの辛い人生に耐えられる?」
「辛いって決めないでよ」
 苦笑すれば彼もまた笑う。
「じゃあね」
 そう言って、姿が薄くなって彼は消えていった。見えなくなる瞬間、思わず伸ばしかけた手を引っ込める。これでいい。これが正しい現実だ。彼が消えれば、ごく普通の夜明けの景色が目に映る。雲が晴れて、薄オレンジの空が広がっていく。
「謙」
 本物の有村の声で呼ばれて振り向いた。もう険しい顔はしていない。少しは彼に認めてもらえたのかなと、そう思う。
「もうトモヤくんは現れなくなったのか?」
「多分」
「多分かよ」
 呆れたように言いながら、彼が抱き寄せてくれる。
「ここから先は俺の力量次第ってことか」
「いえ」
 貢本も勇気を出して、彼の背に腕を回す。
「俺、ちゃんと頑張ります。これからは辛いことがあっても逃げないから」
「もう、辛い思いはさせない」
「紘一朗さん」
 強く抱きしめられて、甘えるように彼の胸に頬を寄せる。
 ひんやりとした空気の中で、酷く穏やかな気持ちで長く彼に抱かれていた。
34/36ページ
スキ