明日会えない恋人

 そこで幻影より強い声が貢本を呼んだ。振り向けば有村が必死の形相でこちらに向かっている。急がなければ引き戻されてしまう。その思いで手すりを乗り越えようと、腕の力で身体を浮かす。
「謙、ダメだ。戻ってこい」
 有村が叫ぶ。彼が自分のために必死になる様子に胸が擽られた。今彼は自分のことだけを考えてくれている。それが嬉しいと思う。
 ずっと、有村家に迷惑を掛けてはならないと思ってきた。結婚はしないという言葉を支えに、せめて弟で社員という立場で彼の傍にいようと思った。けれど真沙子に何度正式に養子にしたいと言われても、それだけは拒否してきた。有村姓になれば彼と完全に兄弟になってしまうから。そうなれば永遠に恋人にはなれないから。心の底ではずっと有村の恋人になりたいと願っていた。それなのに彼はあっさり結婚前提の恋人を作った。それが、思ったよりずっと苦しかった。
「俺の傍にいろ。これからずっと。もう離さないから」
「嘘だ」
 足を下ろして彼に顔を向ける。
「嘘じゃない。報道は誤報だ。月見史保里はもう一人の男と結婚する」
「また会社の経営が危なくなったら、いいところのお嬢さんと付き合うんでしょう? 叔父さんに頼まれたら嫌とは言えない。母さんにだって、家庭を持っていい顔をしたい。俺の存在なんてそのずっと下だ」
 すらすらと言葉が出てくる自分に驚く。だがそれが本音だった。身体に触れて、恋心になんて気づかせないでほしかった。相手にするつもりがないのなら、突き放してほしかった。一緒に暮らそうなんて言われなければ、ここまで苦しくなかったのだ。
 折れない貢本に、有村の目もきつくなる。
「俺にどうしてほしい?」
 予想外の問いに、返す言葉に詰まった。だがすぐに、欲しいものを言ってやればいいと開き直る。もう自分はいなくなる。だからどう思われようと構わない。
「傍にいてほしい」
「分かった」
「恋人にしてほしい」
「簡単なことだ」
「一緒に暮らしてほしい」
「その程度か」
 嘲るように言われて、挑発に乗ってしまう。
「俺のことを考えてほしい」
「考えている。ずっと」
「一番に想ってほしい。会社よりも、母さんよりも」
「もう想っている」
「嘘だ」
 そこで後ろから呼ばれた気がした。騙されてはいけない。信じればまた辛い思いをすると、知哉が忠告してくれる。
「振り向くな!」
 物凄い剣幕で言われて、そのまま腕を引いて室内に戻された。窓を閉められれば、ベランダに一人残された彼が気になって顔を向けてしまう。
「俺を見ろ」
 頬に手を掛けて彼の方を向かされた。
「トモヤなんていない。まだ分からないか」
 真摯な目を向けられ困ってしまう。散々望みを言ったが、それが叶うとは思っていない。有村には彼の望むように仕事をして、いずれトミライではなく、トップの十未来の社長になってほしい。そして真沙子と穏やかに暮らしてくれればいい。
「どうすれば俺を信じる? どうすれば俺の傍にいてくれる?」
 傍にいたいのは貢本の方なのに、そう問われて混乱した。もう望みは全て告げてしまった。自分は知哉と行きたい。どうすれば有村は無理だと諦めてくれるのだろう。
「……それなら、抱いてほしい」
 ふと思いついたことを言えば、彼が息を呑むのが分かった。その反応に笑ってしまう。それが彼の本音なのだ。
「できないですよね? だから俺は知哉と」
 遠くへ行くのだと告げようとして、その瞬間腕を引かれた。
 強く抱きしめられて、唇を塞がれる。
「兄さ……」
 何か言う前にベッドに放られた。上着を脱ぎ捨てた彼が覆い被さってくる。
「できないだと?」
 貢本の手首を掴んで言う声が、こちらが震えてしまうほどに低い。
「叔父さんの頼みとはいえ、先に約束を破って女と付き合ったのは俺だからな。謙の幸せを見守ってやらなきゃいけないって思っていたんだ。それが相手は幻影だと? ふざけるな」
「冗談、やめてください」
「冗談? 抱いてほしいと言ったのはお前だろ?」
 また唇を奪われそうになって、思わず顔を背けた。
「俺に抱いてほしかったんじゃないのか?」
 そう言った彼が首元に唇を寄せるから、身を捩って逃れようとする。だが何度も押し当てるようにされて、そのうち身体の奥から別の感覚が湧き上がってくる。
「これくらいで感じたか? 口ほどでもないな」
「や……」
 躊躇いもなく、彼は貢本のシャツのボタンを外していく。素肌を彼のひんやりとした指先が撫でていく。胸の尖りを摘まむようにされて、その堪らない感覚に悶えてしまう。
「ん……」
 何もできずにいるうちにベルトの金具を外された。逃れようと身体を横向けたタイミングで、引き抜いて放られてしまう。すぐにズボンも剥ぎ取られ、下着と半端に掛かったシャツだけの姿になった。シャツも剥ぎ取られそうになって彼の手を掴んで抵抗する。だが貢本の敵う相手ではない。すぐに肌を晒されて、こちらの身体を押さえつけたまま、彼も器用に衣服を取り去ってしまう。
「兄さん、もう、分かったから……」
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