明日会えない恋人

 意識を取り戻したとき、薄く開けた窓から入り込む弱い風を感じた。少し寒いが、閉めに立つのは億劫で、掛けものを引き上げながら身体を起こす。
「……!」
 そこで漸く、ベッドの端に身体を伏せて眠る有村に気づいてびくりとした。
「謙?」
 貢本が動いたから起きてしまったらしい。弱い声で言って、すぐに正常な思考を取り戻したように、強い目を向けてくる。
「兄さん、俺」
「今日はいいから、そのまま横になっていろ。久野が買ってきてくれた食料があるけど、他に欲しいものがあるなら買ってくる」
 そう言って、窓を閉めて寝室を出ていこうとする。
「待って」
 こんな気持ちのまま一人にされたくなかった。
「いつから俺がおかしいって気づいていたんですか? 中学のときは騙されて俺と一緒に出掛けてくれた。鈴木知哉が実在することは知っていたんでしょう? それがどうして今度は幻影を見ているって分かったんですか?」
 聞けば彼が苦笑してベッドの傍に戻ってくる。
「去年、謙に恋人がいるって言われた少しあとから、おかしいとは思っていた」
「そんなに前から?」
 驚いて聞けば、ベッドから落ちかけていた掛けものを貢本の腰のところに戻しながら、彼が静かに続ける。
「叔父の頼みで月見史保里と会うことになって、恐らく結婚することになるだろうって謙に話した。そのとき、謙は落ち込む素振りも見せずに、俺にも丁度よく恋人ができたんだって言ったな」
 その記憶はあるから頷く。
「同じ気持ちでいてくれたと思っていた謙があっさり恋人の名前を口にして、俺の方がショックを受けた。女々しいけど、それから謙の様子を観察するようになったんだ。相手はどんな男なんだって。でもどんなにプライベートの謙と会っても、恋人と幸せにしているという感じがしなかった。聞けばいくらでもトモヤくんのことを答えてくれるけど、実感がないというか、不思議な感じがしていたんだ」
 有村に嘘は通用しなかった。中学時代の思い出から作り上げた想像の知哉を語っていたのだから、見る者が見れば分かったのだろう。
「今年の謙の誕生日、一緒に食事をしただろう? あのとき、渡すつもりだった紅茶を忘れて、謙を追い掛けて部屋まで行った。そこで見たものは流石に衝撃だったな」
 確かにそんなことがあった。その夜は本気で、知哉のいるところにやってきた有村の姿に慌てたのだ。普通ではない自分を自覚して俯いてしまう。そんな貢本を気遣うように一度言葉を止めたものの、彼は最後まで話してくれる。
「俺が部屋に行ったとき、玄関を開けた謙はトモヤが来ていると慌てた。それならすぐに帰ろうと思ったけど、玄関に靴がないのが不自然な気がした。そうこうしているうちに、謙は誰もいないリビングに向かって話し出して。自分は一体何を見ているんだろうって怖くなったな」
「そう、ですよね」
 俯いたままの貢本の頬を撫でるようにして、彼が顔を上げさせてくれる。
「あとは謙が考えている通りだ。何かの本で、こういうとき無理に現実を突きつけちゃいけないって読んだことがあった気がした。だからその日は知らん顔をして帰って、すぐに久野と連絡を取ったって訳だ」
 もううっすら分かっていたが、やはり久野は医師として貢本の傍にいた。全てが繋がっていく。有村がよく食事に誘ってくれるようになったのは、弟を心配していたからだ。同じ会社で働いてもいる。おかしくなった社員が、会社で何かしでかすのが怖かったのかもしれない。
 そこでもう一つ気がつく。真沙子が急にリハビリに力を入れ出したのは、有村が貢本から避難させようとしたのではないか。実の息子が義理の息子から母親を護る。それを思えば堪らなくなる。やはり自分には居場所などない。現実を見ようとしていた気持ちが揺らいで、知哉と過ごしたふわふわとした時間に戻りたいと思ってしまう。
「水が飲みたい。冷蔵庫のペットボトルを取ってきてもらえますか?」
「ああ。待っていろ」
 有村が立ち上がって寝室を出ていく。ドアが閉まった瞬間ベッドを降りていた。窓を開けてリビングと一続きになっているベランダに出ていく。そこには知哉がいてくれる。
「謙」
 呼ぶ声が有村のものだと今更気づいた。幻影の知哉を作り出しながら、時々そこに有村を当て嵌めていた。叶わない想いを知哉で満たそうとした。今更そう分かるが、次第にそれもどうでもよくなる。
 自分は幼い頃、類子の生活能力が尽きた時点で死ぬ筈だった。それを真沙子に救われて、この歳まで生きることができた。だからもう充分。もう悔いはない。
 知哉がベランダの手すりをすり抜けて空に上がっていくのを見ても、少しもおかしいとは思わなかった。一緒に連れていってほしい。彼が優しく笑って手を差し出すから、貢本も手を伸ばす。
「謙!」
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