明日会えない恋人

 目を覚ますと明るくなっていた。
 身体を起こせば、シャツとスラックス姿のまま眠っていたことに気がつく。一体昨夜どんな状況でベッドに入ったのか思い出そうとして、そこで壁際で毛布に包まって眠る有村を目にする。
 何故そんなところにいるのだろう。そんな格好で寝ていたら風邪を引いてしまう。
 慌ててベッドを降りて近づいた。軽く肩に触れてみるが、目を覚ます気配はない。辛い夢を見ているのか、酷く難しい顔をしている。
「兄さん」
 膝をついて彼を見つめた。背が高い彼を、こうして同じ目線で見つめるのは珍しい。
 じっくり見るのは久しぶりだが、相変わらず綺麗な顔をしていた。仕事に集中すると鋭くなる目も、薄めの唇も彼を冷たい人間のように見せてしまう。だがそんなことはなくて、初めて会ったときから彼は優しかった。三十でグループ会社の一つを任され、苦労も多かっただろう。それでも弱音を吐くことなく、逆に貢本の社会人生活を気遣ってくれた。
 思えば、五歳で初めて姿を見たときからその存在感に圧倒された。生まれ持ったものの他に、受けてきた教育が違うのだから、その時点で埋められない距離がある。それでも彼の方から近づいてくれた。単なる興味だとしても、貢本を欲しいと思って触れてくれた。求められたのが嬉しくて、その後すっかり彼に囚われてしまった。だから恋人の存在を告げられて、壊れてしまいそうなほど傷ついた。
 二人で暮らす約束を守れないことを悪いと思ったのか、彼は月見史保里と付き合い出したあと何度も食事に誘ってくれた。彼女との進展を聞かされるのが怖くて、聞かれもしない自身の恋愛をよく語った。鈴木知哉は中学時代と変わらない。再会して恋人になれてよかった。合鍵を渡しているから時々部屋に来てくれる。自分は彼が好きで幸せだ。そんな話を、有村はいつも静かな顔で聞いていた。
 雲が動いたのか、窓から入る日の光の加減が変わって、そこで物思いから返る。
 ふと、部屋の隅に置いてある姿見に目が行った。目にしたものに驚く。自分はいつの間にこんなに痩せていたのだろう。考えてみれば、知哉がやってきた夜はほとんど食事をしなかったのだから、痩せても仕方ない。そうだ。だからいつも紅茶が手つかずだったのだ。幻影に食事などできる筈がないから。そう気づくが、すぐにそれもどうでもよくなる。
 昨夜有村と言い争った。どんな内容だったか思い出せない。昨日は職場に井知川がやってきて、帰りに真沙子の病院に行って、電車の中で有村の婚約を知って、とても忙しい日だった。疲れて帰って、部屋には知哉がいたのだ。
「知哉」
 有村がいるなら知哉はいないと分かっていて、それでもつい探してしまった。
 寝室を出て、リビングの窓からなんとなくベランダに目を遣る。そこで、ベランダの手すりに腕を乗せて空を見上げる彼の姿を見つける。
「知哉!」
 慌てて窓を開けてベランダに出た。昨夜有村が彼に酷いことを言った気がする。自分も彼に構わず眠ってしまった。それを詫びなければならない。
「知哉、昨日は」
 だが彼に話しかけた瞬間、後ろでガラス窓が開いた。
「謙」
 振り向けば怖い顔をした有村が立っていて、慌てて隣を見上げれば、そこにもう知哉の姿はない。
「どうして……」
 誰に対してか分からない言葉を呟いていた。混乱して、だがそこで有村も酷く辛そうな顔をしているのに気がつく。
「兄さん」
「ちょっと出かけよう。謙に見てほしいものがある」
「今から?」
「ああ。今すぐにだ」
 有無を言わせない調子で言われて頷くしかなかった。リビングから知哉がいたベランダに目を向ければ、有村が苛立つように貢本の腕を掴む。
「来い」
「兄さん、痛い。ちゃんと行くから、手を離してください」
「黙れ。逃げようとするな」
「逃げようとなんて」
 短い廊下に出るドアの前で言い争っていれば、有村が開ける前にそのドアが開いた。
「朝ご飯買ってきたけど、何を揉めているの。って、ちょっと、どこに行くつもり?」
 そこには何故か、コンビニのビニール袋を下げた久野が立っている。
「T市に行く」
「T市って、冗談言うな。荒療治はダメだって言っただろ?」
「もう、そんなことを言っていられる状況じゃない」
 二人のやりとりの意味が分からない。
「心を壊したらどうする」
「俺が一生面倒を見る」
 有村が言い切れば、そこで久野も黙った。
「分かった。でも心配だから俺もついていく」
 それには有村も反対せず、三人で駐車場に向かった。運転席に載った有村に助手席に乗るように言われて従う。彼は不機嫌なままで、貢本は黙って座っているしかない。久野だけがいつもと変わらず優しくて、車が動き出したあと飲みものを差し出してくれる。
「いないかもしれないだろ?」
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