明日会えない恋人
「それは誤解だ」
「母さんや会社や世間体の方が大事なんでしょう? 俺なんか玩具だ。兄さんと違って、知哉はちゃんと俺を好きでいてくれる」
何も言わせないように続ければ、有村が厳しい表情を見せた。まっすぐ貢本の目を見つめる。
「今、謙の隣には誰もいない。トモヤなんて男はいないんだ」
「何をおかしなことを言っているんですか?」
隣に目を向ければ知哉はちゃんといた。有村と貢本の言い争いを、困ったように笑って見ている。
「彼はここにいる」
「いないんだよ。見えているのはお前だけだ」
そう言って彼が一つ息を吐けば、おかしな感覚に囚われた。何故有村はそんなに落ち着いている? 知哉はいる。隣に立っている。その彼を、どうしていないことにして話す必要があるのだろう。
「それなら答えろ」
何かに吹っ切れたように、有村が言葉を続ける。
「鈴木知哉の好きな食べものはなんだ?」
「知らない。だって一緒に食事をしたことなんて」
「じゃあ、彼の会社名は?」
「会社名なんて聞かなくてもいいでしょう?」
「住んでいる場所は?」
「確かこの近くって」
聞かれれば聞かれるほど、自分が知哉について何も知らないことに気づかされる。だが大人の恋人同士ならないことではない。まして同性同士の関係で、結婚云々を気にすることもないのだ。互いに知られたくないことは話さない。そんな関係だって不思議ではない。
「それなら」
彼が切り札を出すように一度言葉を止める。
「彼の連絡先はどうだ? 電話番号でもラインでもアドレスでもいい。知らないのは不自然だろ?」
「それは……」
流石に答えに困ってしまった。知哉は恋人だ。勝手に部屋に入っていいと言ったから、会いたいときには部屋に来てくれる。それでも連絡先を知らないのはおかしい。何故今まで疑問を持たなかったのだろう。一つ綻びを自覚すれば、信じていたものがガラガラと崩れていく。
「知哉」
助けを求めるように隣の彼を見上げる。だがもうそこに彼の姿はない。
「知哉? どこに……」
「謙」
「離して!」
有村に腕を引かれて必死に振り払った。
「兄さんのせいで知哉が帰ってしまった」
「そんな男は初めからここにはいない」
「やめて!」
もう何も聞きたくなかった。耳を塞いでその場にしゃがみ込む。
「謙」
「帰ってください!」
叫んだところで、誰かがばたばたと部屋の中を駆けてきた。
「何をやっているんだ! 普通の状態じゃないんだ。混乱させるなって言っただろ!」
聞き覚えのある声に顔を上げれば、そこには何故か久野がいる。貢本の傍まで来ると、そっと腕を取って立ち上がらせてくれる。
「貢本さん、少し休もうか。今日はもう眠っちゃった方がいいかも」
「久野さん、俺、確かに知哉と一緒にいて」
「うん、大丈夫。俺は貢本さんの話が嘘だなんて思っていないから」
優しく言われて安堵する。
「歩けるかな? 寝室でちょっと休もう。戸締りはしておくから」
そう言われて、大人しく寝室に連れていかれた。お客さんがいるのに寝るのは申し訳ないと思うが、それよりも今は目を閉じてしまいたくて仕方がない。ベッドに横になると、傍に来た久野が手首に触れてきた。何をしているのだろうと思ったが、すぐに脈を診ているのだと気づいた。そういえばこの人は医者だ。元々オフィスでメンタルの管理をするためにやってきて──。
そこで背中にざらりとした感触が走った。
「ちょっとリビングで紘一朗と話しているね。何かあったら呼んで」
そう言って寝室を出ていく彼の背に、以前水族館で感じた違和感を思い出す。気づいてしまえば、これまで感じた不可解な出来事が繋がっていく。
有村は貢本に久野を宛てがおうとしたのではない。久野も口説こうとしていたのではない。自分は久野の患者だったのではないか。オフィスに精神科医を呼ぶという話も嘘だ。有村は久野に自分を診せようとしていた。
辻褄が合っている。だが認めたくなかった。自分は病気ではない。知哉はちゃんといる。
ドアを隔てたリビングで、有村と久野が話す声が聞こえる。二人に交じって話をすれば全てを認めることになりそうで、全てから逃れるように目を閉じる。
何も気づいていない。自分は何も間違っていない。また知哉はやってきてくれる。
そう強く思って、掛けものを引き上げた。
「母さんや会社や世間体の方が大事なんでしょう? 俺なんか玩具だ。兄さんと違って、知哉はちゃんと俺を好きでいてくれる」
何も言わせないように続ければ、有村が厳しい表情を見せた。まっすぐ貢本の目を見つめる。
「今、謙の隣には誰もいない。トモヤなんて男はいないんだ」
「何をおかしなことを言っているんですか?」
隣に目を向ければ知哉はちゃんといた。有村と貢本の言い争いを、困ったように笑って見ている。
「彼はここにいる」
「いないんだよ。見えているのはお前だけだ」
そう言って彼が一つ息を吐けば、おかしな感覚に囚われた。何故有村はそんなに落ち着いている? 知哉はいる。隣に立っている。その彼を、どうしていないことにして話す必要があるのだろう。
「それなら答えろ」
何かに吹っ切れたように、有村が言葉を続ける。
「鈴木知哉の好きな食べものはなんだ?」
「知らない。だって一緒に食事をしたことなんて」
「じゃあ、彼の会社名は?」
「会社名なんて聞かなくてもいいでしょう?」
「住んでいる場所は?」
「確かこの近くって」
聞かれれば聞かれるほど、自分が知哉について何も知らないことに気づかされる。だが大人の恋人同士ならないことではない。まして同性同士の関係で、結婚云々を気にすることもないのだ。互いに知られたくないことは話さない。そんな関係だって不思議ではない。
「それなら」
彼が切り札を出すように一度言葉を止める。
「彼の連絡先はどうだ? 電話番号でもラインでもアドレスでもいい。知らないのは不自然だろ?」
「それは……」
流石に答えに困ってしまった。知哉は恋人だ。勝手に部屋に入っていいと言ったから、会いたいときには部屋に来てくれる。それでも連絡先を知らないのはおかしい。何故今まで疑問を持たなかったのだろう。一つ綻びを自覚すれば、信じていたものがガラガラと崩れていく。
「知哉」
助けを求めるように隣の彼を見上げる。だがもうそこに彼の姿はない。
「知哉? どこに……」
「謙」
「離して!」
有村に腕を引かれて必死に振り払った。
「兄さんのせいで知哉が帰ってしまった」
「そんな男は初めからここにはいない」
「やめて!」
もう何も聞きたくなかった。耳を塞いでその場にしゃがみ込む。
「謙」
「帰ってください!」
叫んだところで、誰かがばたばたと部屋の中を駆けてきた。
「何をやっているんだ! 普通の状態じゃないんだ。混乱させるなって言っただろ!」
聞き覚えのある声に顔を上げれば、そこには何故か久野がいる。貢本の傍まで来ると、そっと腕を取って立ち上がらせてくれる。
「貢本さん、少し休もうか。今日はもう眠っちゃった方がいいかも」
「久野さん、俺、確かに知哉と一緒にいて」
「うん、大丈夫。俺は貢本さんの話が嘘だなんて思っていないから」
優しく言われて安堵する。
「歩けるかな? 寝室でちょっと休もう。戸締りはしておくから」
そう言われて、大人しく寝室に連れていかれた。お客さんがいるのに寝るのは申し訳ないと思うが、それよりも今は目を閉じてしまいたくて仕方がない。ベッドに横になると、傍に来た久野が手首に触れてきた。何をしているのだろうと思ったが、すぐに脈を診ているのだと気づいた。そういえばこの人は医者だ。元々オフィスでメンタルの管理をするためにやってきて──。
そこで背中にざらりとした感触が走った。
「ちょっとリビングで紘一朗と話しているね。何かあったら呼んで」
そう言って寝室を出ていく彼の背に、以前水族館で感じた違和感を思い出す。気づいてしまえば、これまで感じた不可解な出来事が繋がっていく。
有村は貢本に久野を宛てがおうとしたのではない。久野も口説こうとしていたのではない。自分は久野の患者だったのではないか。オフィスに精神科医を呼ぶという話も嘘だ。有村は久野に自分を診せようとしていた。
辻褄が合っている。だが認めたくなかった。自分は病気ではない。知哉はちゃんといる。
ドアを隔てたリビングで、有村と久野が話す声が聞こえる。二人に交じって話をすれば全てを認めることになりそうで、全てから逃れるように目を閉じる。
何も気づいていない。自分は何も間違っていない。また知哉はやってきてくれる。
そう強く思って、掛けものを引き上げた。