明日会えない恋人

「そう。だからもう切ります」
「待て、謙」
 声に構わず電話を切った。祈るような気持ちで振り向くが、そこにもう彼はいない。
「知哉」
「謙、こっち」
 ほとんど泣きそうになりながら部屋の中を見回せば、窓に近いソファーで彼が微笑んでいた。
「知哉。よかった。ごめん。もう兄さんの電話には出ないから」
 次に出たら消えてしまいそうな気がして、携帯の電源を切ってしまう。
「もう、知哉がいればいい」
 静かな気持ちで、もう一度彼の胸に身体を寄せた。貢本が落ち着くように、彼が髪を撫でてくれる。
「一緒に遠くに行こうか」
 しばらくそうしていて、彼が言った。
「遠く?」
「そう。一緒にいて悩まなきゃいけない人間なら、傍にいない方がいい。僕と謙しかいないところに行こう?」
「俺と知哉しかいないところ?」
「そう」
 いいかもしれないと思った。もう生い立ちに引け目を感じることも、叶わない想いに悩むこともない。知哉が傍にいてくれれば怖いものはない。
「じゃあ、行こうか」
 だが立ち上がった彼に手を引かれて、あまりの展開の早さに戸惑ってしまった。
「今?」
「そう。だって時間を置いたらあの人が来るでしょう? そうしたら止められてどこにも行けなくなる」
 それはそうだが、これまで世話になったお礼は言いたかった。有村にも真沙子にも、職場の人間にも感謝している。
「明日じゃダメかな? 一言お礼を言いたい人がいる」
「ダメ」
 彼が貢本の言うことを拒否するのは珍しかった。残念な気持ちはあるが、我が侭を言って彼が消えてしまうことの方が怖い。
「じゃあ、手紙を書いていいかな。一言だけ。兄さんと母さんにありがとうって伝えたいんだ」
 少し困った顔をしたものの、知哉は許してくれた。彼が消えないように姿を確認しながら、便箋とペンを出してくる。
『有村真沙子様 紘一朗様 今まで大変お世話になりました』
 急がないといけない気がして、それだけを書いた便箋を封筒に入れて、ペンも置きっぱなしにした。
「お待たせ、知哉。どこに行くの? あ、そうだ。俺いくらか部屋にお金を置いてあるんだ。遠くに行くなら電子マネーより現金の方が」
「何もいらないよ」
 なんとなくふわふわした気分でいる貢本に、知哉が静かなまま言う。
「来て」
 手招きされるまま、大きな窓の傍に寄る。知哉がベランダのもっと向こうを見つめるから、不思議な気持ちで夜空と彼の顔を交互に見る。澄んだ空には月が出ていて、彼がもっと近くで見たいと言っているような気がして窓を開けてやる。
 その瞬間だった。
「謙!」
 ドンドンと玄関を叩く音と、有村の声が聞こえてくる。
「謙、開けろ! いるんだろ!」
「兄さん?」
 何故彼がやってくるのだ。いや、それよりも彼が入れば知哉が消えてしまう。
「謙」
 だが今夜の彼は消えなかった。貢本の肩を抱いてベランダに誘導する。十一月の弱い風は寒いと思うほどではなくて、心地よく貢本の肌を掠める。見上げればくっきりとした月が見えて綺麗だと思った。一体、自分は今まで何を悩んでいたのだろう。知哉に肩を抱き寄せられて、ベランダの手すりに身体を寄せる。玩具みたいな車が走っていて、もっと見たくて身を乗り出す。
「謙!」
 手すりを掴む手に力を籠める。身体がふわりと浮いたと思った瞬間、腕を引かれて後ろに倒れた。
「何をしているんだ!」
 ベランダのコンクリートに打ちつけて、身体のあちこちが痛む。擦りながら身体を起こせば、見たこともない表情で怒る有村の姿があった。
「兄さん、どうして」
「どうしてじゃない。俺が来なければどうなっていたと思うんだ」
「どうって……」
 ただ知哉と夜空を見ていただけじゃないかと思って、そこでハッとする。もう一度ベランダに目を遣れば、彼は静かに夜空を見上げていた。その顔が寂しげに見えて、堪らず立ち上がって彼の隣に行こうとする。
「何をしている」
 また厳しい声を向けられて、珍しく彼に対して怒りを覚えた。知哉から離れないようにしながら、同じように立ち上がった有村と対峙する。
「兄さんには関係ない。知哉と過ごしているところにどうして入ってくるんだ」
「トモヤと過ごす? お前、自分がどういう状態か本気で分からないのか?」
 彼の言っていることの方が分からない。分からなくて、そんな自分にも怒りが湧いて、これまで溜めてきた不安も不満も行き場のない気持ちも、みな一度に溢れてしまう。
「都合のいいときだけ構わないでください。月見さんと結婚するくせに」
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