明日会えない恋人
立花がいなくなって、当然仕事は忙しくなった。事務部門長に聞いてみたが、代わりの人員補充もないらしい。忙しいが、もう五年も総務をやっているから、熟せない仕事量ではなかった。備品やコピー用紙の移動はコール部門のスタッフが手伝ってくれるし、配布物は各部署で回してくれる。毎日一時間弱の残業で、問題なく業務を終えていた。
忙しくなって久野と会う機会は減ったが、代わりにラインのやりとりをするようになった。久野には何を話してもいいと有村から言われているので、仕事のことも子ども時代のことも、聞かれれば答えてしまう。親か先生のように話を聞いてくれる彼を、改めていい人だと思う。だが会社で仕事をしてもらうという話は進んでいなくて謎のままだ。新体制になってから採用するのだろうか。そう思い始めた頃、トミライのオフィスにモデルのように綺麗な女性が現れた。
「貢本さん、お客さまです。小会議室にお通ししておきました」
有村が外部の会議でいない日だった。スタッフに呼ばれて、礼を言いながらも首を傾げる。総務の自分に誰かが会いに来ることなど滅多にない。リース機器の修理や郵便関係なら、わざわざ会議室に通したりしないのにと思いながら、仕事の手を止めて小会議室に向かう。
「お待たせしました。総務の貢本です」
ノックをして入れば、長机の席から相手も立ち上がって頭を下げた。
「初めまして。井知川 ゆりと申します」
名乗って顔を上げた女性がハッとするほどの美人で驚く。誰か分からないが会ったことのない人間だ。
「ミライクイックの方で総務部長をしています」
訝る貢本が席に着く前に、彼女がネタばらしをしてくれた。
「統合の話が進んでおりますので、一度トミライ側のオフィスも見ておきたくて」
言いながら名刺を差し出される。トミライでは総務部員に名刺など作らないし、あったとしても部長と主任では相手にならないだろう。そこで漸く彼女の来訪の意味を理解する。
「アポを取るか受付から電話をしないと、一階のゲートを通れない筈ですが、よく電話もなしにここまで来られましたね」
「ええ。ミライクイックの名刺を差し上げたら、受付の方が黙ってゲストカードを貸してくれましたので。グループ会社なんですから、悪いことができる筈もないでしょう?」
「……そうですね」
受付で許可されたなら問題ないが、基本のルールを躊躇いもなく破る人間は苦手だった。いや、実は一目見たときから敵意のようなものを感じて、長くは傍にいたくないと思っている。
「実は私、昔は十未来の副社長の秘書をしていたんですよ」
現社長の叔父のことだ。それは華やかな経歴で、自慢の一つもしたくなるだろう。
「お互い部署が変わらなければ一緒に働くことになると思いますので、どうぞよろしくお願いします」
「こちらこそ」
大きな部署ならこちらを呑み込んでしまうだろう。それを分からせに来たのだろうと、今ここで言う必要はないと思った。自分は有村の言葉を待つ。そんな貢本の反応がつまらなかったのか、彼女はすぐに席を立ってしまう。
「そうだ。秘書時代に副社長が言ったことがあるんです」
ドアの前で彼女がふと思い出したように言った。
「トミライの総務主任の貢本は、優秀なのにもったいないってね。グループ会社とはいえ、どうして別の会社の一社員を気に掛けるんだろうって不思議だったんですよ」
ああ、なるほどと思った。それで貢本を偵察に来たのだ。
「それは不思議ですね」
「営業とか、コール部門に移ってみたいとは思わないんですか?」
「あなたと違って、総務部の仕事にやりがいを感じていますから」
つい言ってしまえば、井知川が一瞬言葉を失って、だがすぐに綺麗な顔に戻った。「突然の訪問、失礼しました」と、一応の礼儀を見せて会議室を出る。
叔父がうっかり甥だと言わなかったことは幸運だった。有村の弟だとバレれば更に面倒なことになっていたに違いない。
エレベーター前まで送って、ドアが閉まった瞬間にため息が零れた。人と争うことは昔から苦手で、特に井知川のようなタイプには拒絶反応があった。だが仕事はできる女性らしいから、新会社の総務部では彼女がトップになるだろう。転職の可能性が現実味を帯びる。
気を取り直して午後の仕事を終え、電車で真沙子のところに向かった。残業のせいでいつもより混んでいる電車に乗る。吊革を掴むことのできない位置に立って、そこでふと斜め上のデジタルサイネージに目が行った。スポーツニュースが二つ流れた後で、見たことのある女性の写真が映し出される。
『月見史保里、婚約へ。株式会社トミライ社長、有村紘一朗さんと』
忙しくなって久野と会う機会は減ったが、代わりにラインのやりとりをするようになった。久野には何を話してもいいと有村から言われているので、仕事のことも子ども時代のことも、聞かれれば答えてしまう。親か先生のように話を聞いてくれる彼を、改めていい人だと思う。だが会社で仕事をしてもらうという話は進んでいなくて謎のままだ。新体制になってから採用するのだろうか。そう思い始めた頃、トミライのオフィスにモデルのように綺麗な女性が現れた。
「貢本さん、お客さまです。小会議室にお通ししておきました」
有村が外部の会議でいない日だった。スタッフに呼ばれて、礼を言いながらも首を傾げる。総務の自分に誰かが会いに来ることなど滅多にない。リース機器の修理や郵便関係なら、わざわざ会議室に通したりしないのにと思いながら、仕事の手を止めて小会議室に向かう。
「お待たせしました。総務の貢本です」
ノックをして入れば、長机の席から相手も立ち上がって頭を下げた。
「初めまして。
名乗って顔を上げた女性がハッとするほどの美人で驚く。誰か分からないが会ったことのない人間だ。
「ミライクイックの方で総務部長をしています」
訝る貢本が席に着く前に、彼女がネタばらしをしてくれた。
「統合の話が進んでおりますので、一度トミライ側のオフィスも見ておきたくて」
言いながら名刺を差し出される。トミライでは総務部員に名刺など作らないし、あったとしても部長と主任では相手にならないだろう。そこで漸く彼女の来訪の意味を理解する。
「アポを取るか受付から電話をしないと、一階のゲートを通れない筈ですが、よく電話もなしにここまで来られましたね」
「ええ。ミライクイックの名刺を差し上げたら、受付の方が黙ってゲストカードを貸してくれましたので。グループ会社なんですから、悪いことができる筈もないでしょう?」
「……そうですね」
受付で許可されたなら問題ないが、基本のルールを躊躇いもなく破る人間は苦手だった。いや、実は一目見たときから敵意のようなものを感じて、長くは傍にいたくないと思っている。
「実は私、昔は十未来の副社長の秘書をしていたんですよ」
現社長の叔父のことだ。それは華やかな経歴で、自慢の一つもしたくなるだろう。
「お互い部署が変わらなければ一緒に働くことになると思いますので、どうぞよろしくお願いします」
「こちらこそ」
大きな部署ならこちらを呑み込んでしまうだろう。それを分からせに来たのだろうと、今ここで言う必要はないと思った。自分は有村の言葉を待つ。そんな貢本の反応がつまらなかったのか、彼女はすぐに席を立ってしまう。
「そうだ。秘書時代に副社長が言ったことがあるんです」
ドアの前で彼女がふと思い出したように言った。
「トミライの総務主任の貢本は、優秀なのにもったいないってね。グループ会社とはいえ、どうして別の会社の一社員を気に掛けるんだろうって不思議だったんですよ」
ああ、なるほどと思った。それで貢本を偵察に来たのだ。
「それは不思議ですね」
「営業とか、コール部門に移ってみたいとは思わないんですか?」
「あなたと違って、総務部の仕事にやりがいを感じていますから」
つい言ってしまえば、井知川が一瞬言葉を失って、だがすぐに綺麗な顔に戻った。「突然の訪問、失礼しました」と、一応の礼儀を見せて会議室を出る。
叔父がうっかり甥だと言わなかったことは幸運だった。有村の弟だとバレれば更に面倒なことになっていたに違いない。
エレベーター前まで送って、ドアが閉まった瞬間にため息が零れた。人と争うことは昔から苦手で、特に井知川のようなタイプには拒絶反応があった。だが仕事はできる女性らしいから、新会社の総務部では彼女がトップになるだろう。転職の可能性が現実味を帯びる。
気を取り直して午後の仕事を終え、電車で真沙子のところに向かった。残業のせいでいつもより混んでいる電車に乗る。吊革を掴むことのできない位置に立って、そこでふと斜め上のデジタルサイネージに目が行った。スポーツニュースが二つ流れた後で、見たことのある女性の写真が映し出される。
『月見史保里、婚約へ。株式会社トミライ社長、有村紘一朗さんと』