明日会えない恋人

「いえ。これも総務の仕事ですから」
 彼が開けてくれた助手席に乗り込む。こういうことがさりげなくできてしまうのだから、さぞ女性にモテるだろうと、密かにそんなことを思う。
「ちゃんと残業つけろよ」
「タイムカードを押してしまいました」
「じゃあ、俺が特別手当をやる」
「他の社員に見つかったら、賄賂か何かと思われますよ」
「同じ会社でなんの賄賂だよ」
 軽口で笑いながら、彼がゆっくりと車を走らせる。
 冬の空は澄んでいて、星がよく見えた。本当は運転する彼の手元や横顔を見ていたいが、弟としてそれは不自然だから、貢本は疎らに広がる星と、等間隔に並ぶ街路樹を見ている。
「これ見たか? うちの会社が出ている」
 信号待ちで止まったところで彼の携帯を差し出された。画面を開けばネットニュースが表示される。
『(株)ミライクイック、上半期で前年度契約数を突破、(株)トミライは1.2倍。来年度一本化の情報も』
 そんなタイトルで始まる記事は、十未来グループに対してかなり好意的なものだった。一総務部員だが、自分の会社が評価されればやはり嬉しい。
「もう噂は聞いていると思うが、一本化の話は事実で、俺が新会社のトップになる。謙には先に言っておいてもよかったんだが、遅くなって悪いな」
「いえ。他の社員と同じで充分です。でも嬉しいな。トミライはもちろん兄さんの力だけど、ミライクイックの業績アップも、こっちのノウハウを移したからなんでしょう?」
「どうだろうな」
「謙遜は似合わないですよ。ミライクイックの社長さんだって、兄さんの実力を認めたから社長を譲る形になったんでしょう?」
 元々十未来の上客相手に始めた商売だから、トミライは直接顧客と接するスタッフはもちろん、事務スタッフや貢本のような裏方まで社員教育を徹底している。誰がいつ顧客と話しても恥ずかしくない企業。紘介が生きていたときから、その理念は変わらない。
 新しくできたミライクイックの方はその辺りが少し緩くなっていて、有村が半年程掛けて変えていった。接客だけでなく、金利も新規客の目を引くものに変えたことで、一気に申し込みが増えた。もちろん認可額によって金利が違うから、トータルでは以前の金利より利益が出る設定になっている。彼が他社に出掛けて忙しくしていたのはそういう訳だ。
「噂って怖いな。俺が何か言う前に、事実もそうでないものも広がってしまう」
「今俺が言ったことは大体事実でしょう?」
「まぁ、そうだけど」
 話すうちに景色が見慣れたものに変わり、二人で貢本の部屋に帰った。
 簡単に夕食の支度をしてリビングの彼に声を掛ければ、彼はソファーで眠っている。いいジャケットがシワになるのも構わず横になって、静かに目を閉じている。
 それは疲れるよなと、今更なことを思った。統合の準備で忙しい中、こうして貢本の傍にいてくれたのだ。
「兄さん」
 起こすのは可哀想な気もしたが、ソファーでは身体によくないと思って肩を揺する。
「こんなところで寝たら風邪を引きますよ。寝るなら俺のベッドで」
「謙」
「……っ!」
 目を開けた彼に腕を引かれた。体勢を崩した身体を受け止めるように、有村が正面から抱き留めてくれる。
「ごめん……!」
 離れようとしたのを、彼の腕に封じられてしまった。身体の上で身動きできないほど、しっかり抱きしめられてしまう。
「兄さん?」
 呼ぶのと同時に身体を入れ替えられた。ソファーの上で覆い被さられる。首元に顔を寄せられて、戯れではないと知ってしまう。
「兄さん、寝惚けているんですか? 冗談はやめて」
「冗談?」
「ん……っ」
 鎖骨の上を甘く噛むようにされて、全身にまずい感覚が走った。
「冗談なんかじゃない。昔したことがあっただろう?」
 あの日のことを言われていると分かって、頬に血が上った。あんな事故みたいな出来事、有村は忘れていると思っていた。
「兄さん、あの……」
 過去の行為を思い出すように彼の纏う空気が張り詰めて、冗談にして逃げる道も断たれる。
「あれから何度も同じことをしたいって思った。同じ家の中にいるから、結構しんどい日もあってな」
 それは抱く相手が欲しかったという意味だろうか。貢本もそれを望んでいた時期もあるが、今は状況が違う。とにかく彼から離れなければ。
「謙」
 混乱のうちに唇が奪われた。何もできずにその感触を受け止める。密着した肌から、彼の少し高くなった体温を感じる。
「ずっと謙が欲しいと思っていた。謙は待っていてくれると油断していた。でも、まさかこんなことになるなんてな」
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