明日会えない恋人

 鈴木知哉は穏やかな少年だった。黒縁眼鏡が似合って、静かで真面目。誰もやりたがらない図書委員を押しつけられたのが同じで、クラスが違うのに仲よくなった。
 ほとんど誰も本を借りに来ない放課後は暇で、二人とも当番の日はベランダに出て、中庭を見下ろしながら話していた。互いのクラスの有名人の話や、面白い先生の話。他愛もない話をするのが楽しくて、部活で忙しい他の図書委員の代わりに当番を引き受けて、いつも二人で当番をした。
 そのうち、彼は自分が母子家庭だと話してくれた。気性の荒い父親のせいでだいぶ苦労したという。今は離婚して母親と二人で暮らしていて、裕福ではないが幸せだと彼は言った。本音で語ってくれたから、貢本も自分の複雑な生い立ちを話してしまう。迷惑を掛けないようにという母親の遺言。名字の違う家族。態度がぎこちないままの父親。そんな話を知哉は静かに聞いてくれた。お互い頑張って生きていこうと言われて、そうだねと返す。中学生なりに気を遣って生きていた二人の、息抜きのような時間だった。
 卒業後は別々の高校に進学した。彼はバイトと勉強の両立に忙しくなり、貢本はハイレベルな授業についていくのに必死で、そのうち彼の連絡先が変わって、連絡を取ることもなくなった。だが中学の大事な友達という思いはずっと胸の中にあった。有村とデートするために名前を使ったことも、もちろん忘れはしない。だから有村が月見史保里と結婚前提の付き合いを始めたと聞かされたとき、咄嗟に彼の名前が出たのだ。
「──恋人? 謙に?」
 有村の車の中で、月見史保里とのことを聞いたあとだった。
「そう。中学のとき好きだった鈴木くんと再会して、付き合うことになったんだ。同じ時期に恋人ができるなんて、俺たちやっぱり兄弟だね」
 我ながらおかしなことを言ったと思う。それでも、自分にも恋人がいるから心配はいらない。傷ついてなんかいないと伝えたかった。
「そっか」
 フロントガラスを見つめて、有村がそれ以上聞いてくることはなかった。そんなものかと思う。特別な関係になれるかもしれないと自惚れたこともあったが、やはり自分は、有村にとって会社にも真沙子にも敵わない存在なのだ。
 家に帰る車で窓の外を見つめる。泣きそうだった。有村が結婚したら、こんな風に気軽に会うことはできない。どんな顔をすればいいか分からないし、彼が幸せな家庭を築く様子など見たくなかった。
「謙」
「あ、すみません」
 気がつけばマンションの前に到着していて、慌てて降りようとするのを、腕を引いて止められる。
「謙」
 不意討ちで抱き寄せられて、彼の肩に顔を寄せる。背に腕を回されて、少しだけそうして彼の体温を感じていた。本音は抱き返して、女性と恋人になんてならないでほしいと伝えたい。彼の力で会社も真沙子も自分も全部護ってほしい。だがそれができないほど紘介の死は突然で、十未来グループの混乱も酷いと分かっていた。
「誤解を招く行動は控えた方がいいですよ。女性は繊細だから」
 そう言ってこちらから離れてやった。
「そうだな。悪い」
 謝られて傷ついたのを隠すように、笑って手を振って部屋に帰っていく。
 恋人になる約束をしていた訳ではない。彼の役に立てるように勉強してきたのも、総務の仕事に力を注いできたのも自分の勝手で、有村には何一つ非はない。それでも人生の道標を失ったような気持ちで、一晩中苦しかった。いつも二人で過ごした日は別れた後に短いメッセージをくれていたのに、今夜はそれもない。彼に恋人ができるというのは、こういうことなのだと知った。小さなことからこうして距離ができていく。思考は沈んで、ベッドの中の身体が冷えていく。
 だが辛い夜を過ごして、翌日買いものに出たところで、奇跡みたいに知哉と再会した。嘘が現実になった驚きで、辛かった気持ちが軽くなる。彼も貢本のことを覚えていてくれて、何度か話すうちに部屋に来てくれるようになった。はっきりした言葉があった訳ではないが、互いに恋人だと思うようになった。
 彼のお陰で有村の傍にいるのも辛くなくなった。これでいい。自分はこれから知哉といる。彼といれば有村の幸せを願うことができる。
 そう思ってきたのに、このところ何故か有村と過ごす時間が増えている。勘のいい知哉は、有村がいる日は決して現れない。
 彼女と別れたら毎日指輪をすると彼は言った。だがそれが告白だと自惚れるほどお気楽ではなかった。二人で真沙子を護っていくという意味かもしれないし、それでも充分幸せだと思わなければならない。貰った指輪は、あとから自分で買ったリングケースに大事にしまってある。
 そんなある日の仕事帰り、電車を乗り継いで和菓子の専門店に向うことになった。十二月頭に有村が職場スタッフ全員に菓子折りを配るから、その注文をしに行ったのだ。任せると言われているから、今年はスタッフの意見も聞いて、あられと煎餅の詰め合わせにした。それなら甘いものが苦手な人間にも喜んでもらえる。経費ではなく有村が費用を出しているものだから、少しでも彼の評価が上がるものがいい。
 コンクリート造りで、入り口の引き戸だけ和風にしたこぢんまりとした店だった。事前に電話をしていたから話はすぐに済む。注文用紙を書いて前払いで料金を払えば、女将が申し訳なさそうに頭を下げた。
「こんな立派な会社なら、支払いもあとからで構いませんのに」
「いえ。大量注文ですし、その方が安心でしょうから」
 問題ないと笑ってやれば、もう一度頭を下げた彼女が、サービスだと言ってあられの詰め合わせをくれる。礼を言って店を出れば、小さな駐車場に見慣れた車が止まっていた。
「謙」
 ドアを開けて手を振るのは有村だ。
「兄さん」
「迎えに来た。悪いな。仕事終わりにこんなことまでさせて」
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