明日会えない恋人
予感通り、午後はイレギュラーもなく定時で上がれることになった。立花と挨拶を交わして席を立つ。
職場を出た後、自宅に帰るのとは別の路線で母親の病院に向かった。白い大きな建物の、慣れたエレベーターで五階の個室に向かう。
「母さん、入るよ?」
声を掛けてから引き戸を開ければ、いつものように彼女が穏やかに笑ってベッドに座っていた。入院着姿で一つに縛った髪を肩から流している。彼女が有村の実母で、貢本の育ての母である有村真沙子 だ。もう還暦近いのに、はっとするような美貌は変わらない。
「体調はどう?」
「謙 が来てくれたから元気になったわ」
いつもと同じ台詞だが、今日は頬に少し赤みが差して、本当に体調がよさそうだった。彼女は夫を亡くした寂しさから身体を弱らせて療養している。入院は本人の希望で、経営状態のよくない私立病院に纏まった入院費と寄付金を払って、もう一年以上入院している。費用が高額な個室はずっと空いたままだったから、病院側もありがたがって、大事に彼女を診てくれている。遅い時間の面会も許されているのはそういう訳だ。
「仕事はどう? 謙は頼まれると断れないところがあるから、仕事を抱え込みすぎてストレスを溜めちゃダメよ。もし嫌な上司や同僚がいるなら、母さんが怒鳴りに行ってあげるからね」
もう二七の男も、母親にとってはいつまでも子どものままなのだろう。小学生に言うように言われて、ベッドの傍の丸椅子を引き寄せながら笑ってしまう。義理の息子だが、彼女は心から貢本を大事に思ってくれている。
「嫌な人間なんていないよ。兄さんの会社だもん。悪い人間が放置される訳ないでしょう?」
「あの子は冷たいところがあるからね。社員に嫌われていないか心配なのよ」
「ちゃんとみんなに慕われている社長だよ」
わざと実の息子を悪く言う彼女に苦笑しながら、いつものようにサイドテーブルの下の物入れを開ける。友人や父親の元部下の妻たちがお見舞いに来るから、そこには手土産の菓子箱が積み重なっていた。開けても一人では食べきれないから、持って帰って誰かにあげてちょうだい。来るたびにそう言われて、貢本が職場のスタッフに配るのが習慣になっていた。彼女は見舞客との世間話が楽しめればそれで満足らしい。
「また貰っていくね。たまには母さんも一つ食べてみる?」
「いいわ。ここの食事はおいしいから、それで充分なの。あ、そこの紙袋を使ってちょうだい」
「うん。ありがとう」
物入れを閉めて、菓子箱を入れた紙袋を鞄の傍に置く。そこでふと、サイドテーブルの奥に目が行った。小さな花籠があって、その後ろにA4の封筒が立てかけてある。
「兄さんが来たの?」
何気なく聞けば、途端に真沙子の瞳が揺れた。
「違うわ。紘介さんの知り合いの弁護士さんに来てもらったの。長く入院しているから、誰も住んでいない自宅のこととか相談したくてね」
「そう」
紘介というのが一年前に亡くなった父親の名前だ。
「困ったことがあったら、ちゃんと相談してよ。病院からじゃ色々と動きづらいこともあるだろうし。俺で頼りないなら兄さんを呼んでもいいんだから」
そう言ってやれば彼女が慌てる。
「謙を頼りないなんて思う筈がないでしょう? それに、紘一朗は呼びつけても来てくれないわよ」
「聞かれたら兄さんに叱られるよ」
また有村を悪く言う彼女に苦笑して言えば、真沙子もふっと笑う。
なんでもないやりとりをしながら三十分程傍にいて、その日は帰ることにした。ここは完全看護で洗濯もしてくれるから、貢本は鞄と菓子箱の紙袋だけを持って病室を出る。
昼間有村はしばらく病院に行くつもりはないような言い方をしていたが、実は来ていたのだろうか。病院の建物を出ながら考える。封筒の傍に彼のボールペンがあったから、来たことは間違いないのに、何故二人とも隠すのだろう。
物思いをしながら、電車を乗り継いで家に帰る。
未だに義理の息子に遠慮して、仲がよくないフリをしてくれているのだろうか。そんな気遣いはいらないのにと思いながら、慣れた道を歩いていく。
就職してから一人で暮らしているマンションに帰り着き、玄関の明かりを点けると、微かに物音がした。
「知哉 ?」
はっとしてリビングの明かりも点ければ、テーブルに伏せて寝ていた彼が、身体を起こして貢本に顔を向けた。
「お帰り、謙」
寝起きの少し掠れた声で言われて、つい顔が緩んでしまう。
「電気くらい点ければいいのに。エアコンも点けないで、熱中症にでもなったらどうするの」
咎めるように言いながらエアコンを操作してやる。お茶の準備を始めれば、キッチンカウンターの貢本を眺めて彼が笑った。黒縁眼鏡の彼と目が合った瞬間、何もかも許せてしまうのだから、惚れた弱みだと思う。
「謙、今日もお疲れ」
「うん。ありがとう」
職場を出た後、自宅に帰るのとは別の路線で母親の病院に向かった。白い大きな建物の、慣れたエレベーターで五階の個室に向かう。
「母さん、入るよ?」
声を掛けてから引き戸を開ければ、いつものように彼女が穏やかに笑ってベッドに座っていた。入院着姿で一つに縛った髪を肩から流している。彼女が有村の実母で、貢本の育ての母である
「体調はどう?」
「
いつもと同じ台詞だが、今日は頬に少し赤みが差して、本当に体調がよさそうだった。彼女は夫を亡くした寂しさから身体を弱らせて療養している。入院は本人の希望で、経営状態のよくない私立病院に纏まった入院費と寄付金を払って、もう一年以上入院している。費用が高額な個室はずっと空いたままだったから、病院側もありがたがって、大事に彼女を診てくれている。遅い時間の面会も許されているのはそういう訳だ。
「仕事はどう? 謙は頼まれると断れないところがあるから、仕事を抱え込みすぎてストレスを溜めちゃダメよ。もし嫌な上司や同僚がいるなら、母さんが怒鳴りに行ってあげるからね」
もう二七の男も、母親にとってはいつまでも子どものままなのだろう。小学生に言うように言われて、ベッドの傍の丸椅子を引き寄せながら笑ってしまう。義理の息子だが、彼女は心から貢本を大事に思ってくれている。
「嫌な人間なんていないよ。兄さんの会社だもん。悪い人間が放置される訳ないでしょう?」
「あの子は冷たいところがあるからね。社員に嫌われていないか心配なのよ」
「ちゃんとみんなに慕われている社長だよ」
わざと実の息子を悪く言う彼女に苦笑しながら、いつものようにサイドテーブルの下の物入れを開ける。友人や父親の元部下の妻たちがお見舞いに来るから、そこには手土産の菓子箱が積み重なっていた。開けても一人では食べきれないから、持って帰って誰かにあげてちょうだい。来るたびにそう言われて、貢本が職場のスタッフに配るのが習慣になっていた。彼女は見舞客との世間話が楽しめればそれで満足らしい。
「また貰っていくね。たまには母さんも一つ食べてみる?」
「いいわ。ここの食事はおいしいから、それで充分なの。あ、そこの紙袋を使ってちょうだい」
「うん。ありがとう」
物入れを閉めて、菓子箱を入れた紙袋を鞄の傍に置く。そこでふと、サイドテーブルの奥に目が行った。小さな花籠があって、その後ろにA4の封筒が立てかけてある。
「兄さんが来たの?」
何気なく聞けば、途端に真沙子の瞳が揺れた。
「違うわ。紘介さんの知り合いの弁護士さんに来てもらったの。長く入院しているから、誰も住んでいない自宅のこととか相談したくてね」
「そう」
紘介というのが一年前に亡くなった父親の名前だ。
「困ったことがあったら、ちゃんと相談してよ。病院からじゃ色々と動きづらいこともあるだろうし。俺で頼りないなら兄さんを呼んでもいいんだから」
そう言ってやれば彼女が慌てる。
「謙を頼りないなんて思う筈がないでしょう? それに、紘一朗は呼びつけても来てくれないわよ」
「聞かれたら兄さんに叱られるよ」
また有村を悪く言う彼女に苦笑して言えば、真沙子もふっと笑う。
なんでもないやりとりをしながら三十分程傍にいて、その日は帰ることにした。ここは完全看護で洗濯もしてくれるから、貢本は鞄と菓子箱の紙袋だけを持って病室を出る。
昼間有村はしばらく病院に行くつもりはないような言い方をしていたが、実は来ていたのだろうか。病院の建物を出ながら考える。封筒の傍に彼のボールペンがあったから、来たことは間違いないのに、何故二人とも隠すのだろう。
物思いをしながら、電車を乗り継いで家に帰る。
未だに義理の息子に遠慮して、仲がよくないフリをしてくれているのだろうか。そんな気遣いはいらないのにと思いながら、慣れた道を歩いていく。
就職してから一人で暮らしているマンションに帰り着き、玄関の明かりを点けると、微かに物音がした。
「
はっとしてリビングの明かりも点ければ、テーブルに伏せて寝ていた彼が、身体を起こして貢本に顔を向けた。
「お帰り、謙」
寝起きの少し掠れた声で言われて、つい顔が緩んでしまう。
「電気くらい点ければいいのに。エアコンも点けないで、熱中症にでもなったらどうするの」
咎めるように言いながらエアコンを操作してやる。お茶の準備を始めれば、キッチンカウンターの貢本を眺めて彼が笑った。黒縁眼鏡の彼と目が合った瞬間、何もかも許せてしまうのだから、惚れた弱みだと思う。
「謙、今日もお疲れ」
「うん。ありがとう」