明日会えない恋人

 部屋の前で車を止めて、彼は恋人のような言い方をした。つい勘違いしそうになって、自分を落ち着かせるのに苦労する。期待して後から辛い思いをするのには懲りていた。だから戒めの意味も込めて聞いてみる。
「兄さんと一緒にいられるのは嬉しいんですけど、でもいいんですか? 月見さんが怒りませんか?」
 月見史保里つきみしおり。有村の恋人の名前だ。怒るかなと思ったが、彼の表情は変わらない。
「別れることになると思う。まだ正式には言えないけど」
「え?」
 まさかと思った。彼女は株式会社十未来の取引先で、叔父が会社を継いだときにどこよりも世話になった会社の会長令嬢だ。別れたいと言って別れられる女性ではない。その思いを察したように、彼が前を向いたまま続ける。
「父さんが死んだときは突然だったからバタバタしたし、叔父さんも弱気になっていたんだ。でもこの一年で自分の力でも充分やっていけるって分かったんだよ。だからもう、結婚で取引先との関係をどうこうしようなんて考えなくてもいい」
「でも一度纏まった話で、月見さんは乗り気なんでしょう?」
 この容姿と実力だ。時代にそぐわない政略結婚でも、会えば好きになる。その気になった女性の気持ちを変えることは難しい。そんな気持ちも読まれてしまう。
「別に俺は惚れられている訳じゃない。条件がよくて、そこそこの見た目の男なら誰でもいいんだ。その証拠に、彼女には俺以外にもう一人恋人がいる」
「もう一人?」
「そう。だから俺はさっさと引きたいんだけど、企業としても家柄としてもあっちの方が上だからな。別れるにしても、女性に恥をかかせないようにしないといけない。その別の男との婚約が決まり次第大きく発表して、俺のとの関係は誤報でしたと言う流れにもっていきたいんだ。それまで俺は余計なことは言えない。面倒だけどな」
「そう、ですか」
 本音はほっとした。いや、正直嬉しいと思っている。だが有村の前でその気持ちを出す訳にはいかない。なんと返せばいいか悩んでいれば、彼に笑われてしまった。
「謙は優しいけど、おかしなところで強情だよな」
「なんですか、いきなり」
 気持ちを見透かされたようで居た堪れなくなった。恋人の女性と別れたからといって、貢本の想いが叶う訳ではない。自惚れることも多くを望むこともしないつもりだ。それでも期待は大きくなる。
「本当はちゃんと渡すつもりだったんだけど」
 脈絡もなく、有村はジャケットの内ポケットに手を入れて、何か小さなものを取り出した。
「やる」
 握ったままの手を差し出されて、思わず手を出してしまえば、そこに銀色に光るものが二つ落ちる。一つ手に取ると、彼はそれを自分の左薬指に嵌めた。
「指輪? えっと、どうして?」
 意味が分からなくて混乱してしまった。貢本は宝飾品に詳しくないが、多分玩具ではない。有村が身に着けるくらいだから高価なものだろう。
「トミライの社長になったときに、形から入ろうと思って買った。周りに舐められないようにってな」
「形から?」
「そう」
 手のひらに乗せたままの貢本に焦れたように、有村がそれを薬指に嵌めてくれる。たかが数グラムの金属がやけに重い。その重さの意味を、貢本は懸命に考える。
「日本には結婚して一人前っていう考えがまだまだ根強いだろ? 若かったから、グループ会社や取引先の人間に見下されるのが嫌で、まず服装に気を遣った。その延長みたいなもので、結婚しているフリもすることにしたんだ。他社との会議のときにはこれをするようにしてな」
「知らなかった」
「会社では隠しているからな。でもカモフラージュでも、宝石店で指輪を一つ買うのも気まずいだろ? だから既婚者のフリをして、勧められるままペアリングを買ったんだ」
 その片割れが今貢本の指にある。その事実にじんと胸が熱くなった。既婚のフリをしようとしたとき、少しでも貢本の存在を考えてくれたのだろうか。同性で兄弟だが、そのとき一瞬でも彼の一番だったのだろうか。指輪は大きくて、貢本の薬指でくるりと向きを変えてしまう。
「ちゃんとサイズを合わせたつもりだったんだけどな。謙がそれだけ痩せたってことだ」
「そんな筈ないです。だって見た目は全然変わらない」
 おかしなことを言われて、子どものように言い返した。家にヘルスメーターはないが、自分の姿なら毎日鏡で見ている。目に映る姿形はずっと変わっていない。
「謙」
 有村が何故か哀しげな表情を見せる。だがすぐに気を取り直したように、指輪を右の薬指に嵌め直してくれた。貢本は右指の方が少し太くて、右になら指輪がぴったりと嵌る。
「彼女とはもうほとんど会っていない。でもけじめは大事にしたいから、もう少しだけ待っていてほしい。正式に別れることになったら、俺は毎日これを嵌めることにするから」
「兄さん」
 何を待つの? と、出掛かった問いは呑み込んだ。期待していいのだろうか。貢本の願いが叶うのだろうか。だが現実は難しいだろう。自分たちは兄弟で、真沙子の存在もある。その前に、有村の気持ちが貢本とは違うものかもしれない。余計な期待は持たない。それが平和に過ごすコツで、ずっとそうして生きてきた。有村の家に迷惑を掛けないこと。それが母親の遺言でもある。
 湧き上がる気持ちと、それを抑える気持ち。二つの間で苦しくなって、その瞬間ふっと眼鏡の彼の姿が浮かびかける。
「謙」
 思いがけず、有村の強い声に引き戻された。
「お前も自分の好きなように生きていいんだ。それに一人じゃない。俺も母さんも久野も会社の人間も、ちゃんとお前を大事に思っている」
「何、突然?」
 とてもありがたいことを言われているのに、何故か少し恐くなった。貢本の反応が分かったのか、有村がそっと抱き寄せてくれる。
「俺を信じろ。もう不安にはさせないから」
 髪を撫でられれば次第に心が落ち着いた。今は素直に彼の言葉を聞いておけばいいと思えてくる。
「仕事が終わったら電話する」
「はい」
 貢本の髪を撫でながら言って、彼は漸く仕事に向かった。余韻に浸りたくて、車が走り去った道を眺めて立ち尽くしてしまう。
 不安にはさせない。好きなように生きていい。
 自分にはもったいない言葉を、ずっと噛みしめていた。
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