明日会えない恋人

 彼の後ろをついて階段を上りながら、この家に来てよかったと思った。類子もきっと、それでいいと褒めてくれる。
 真沙子の言うことをよく聞くこと。有村家と紘一朗に迷惑を掛けないこと。紘介が亡くなったあとの迷惑になるから、決して有村姓にはならないこと。類子が残した言葉を忘れずに、この家でいい子にして暮らしていこう。子どもなりにそう思う。
 有村家での生活は穏やかだった。仕事で忙しかった紘介の記憶はあまりないが、辛く当たられたことはない。真沙子はいつも優しくて、有村も突然できた弟を可愛がってくれた。
 広い家で与えられた自室は日当たりがとてもよくて、真沙子が家事をしている間は、よく窓の傍で遊んでいた。暖かい日は類子の体調もよかったと懐かしく思ううちに、不思議なことに彼女が目の前に現れるようになる。
『謙、いい子にしていた?』
 ベランダの窓をすり抜けてやってくる彼女は、いつも初めにそう言った。そうして窓の傍に立って、貢本が遊ぶ様子を眺めている。触れることも抱きしめることもできなかったが、それで充分だった。玩具で遊ぶ途中で目を遣れば、類子が笑ってくれる。玩具に飽きれば類子と話をする。一人で何時間でも遊んでいられた。なんとなくこの時間は真沙子には秘密にしなければならないと思って、誰にも話さなかった。
 だがあるとき、窓を見つめて話しているのを有村に見つかってしまう。
「お兄ちゃん、これが僕のお母さんだよ」
 紹介したくて無邪気に言ったとき、彼が表情をなくした。
「お母さんには内緒だけど、お兄ちゃんには見せたくて」
「謙」
 傍に来た彼が、硬い表情のまま貢本を強く抱きしめる。
「あのな、謙。謙のお母さんはもう亡くなったんだ。でも俺がいるから寂しくない」
 彼に抱かれているうちに幻影は消えてしまって、ああ、本当は見えないものだったのだと分かった。もう一度呼びたかったが、有村が離してくれないから諦める。
 それから類子が現れることはなくなった。寂しかったけれど、有村がそれまでよりずっと傍にいてくれるようになったから、少しずつ類子がいない日々に慣れていく。
 真沙子の助けもあって、ゆっくり時間を掛けて、母親の死を受け入れたのだ。
16/36ページ
スキ