明日会えない恋人

 有村の会社に入って初めて給料を貰ったとき、貢本はその半分を真沙子に渡そうとした。自分が産んだ訳でもない子どもを大事に育ててくれたのだから、それくらいは当然だと思ったのだが、彼女は頑として受け取らない。実家暮らしでもないし、そんなことはしなくていい。若者らしく欲しいものを買ってくれたら嬉しい。そう言われて、漸く自分は何が欲しいか考えたのだ。
 考えた末、貢本は給料の数か月分を探偵に注ぎ込んだ。父親が有村紘介であることは間違いないが、実の母親がどんな事情で貢本を産んだのか、確実なところは知らずにいたから、できる限り調べてみようと思ったのだ。亡くなった人間のことだから、調査結果は期待しないでおこう。一社だけでは適当なストーリーをでっち上げられるかもしれない。そう思って、小さな私立探偵二社に依頼した。運よく二社ともきちんと仕事をする会社で、ほぼ同じ調査結果が上がってきたことで、母親の過去を知ることができたのだ。
 貢本の実母、貢本類子は身体の弱い女性だった。体調のせいでフルタイムの仕事ができず、比較的出勤の自由が利く夜の仕事をして慎ましく暮らしていた。
 オーナーの男性は病弱な類子を理解して、働きやすいよう気を配ってくれたという。だが店の経営状態が悪くなったとき、彼は金のある顧客を繋ぎ止めるためにスタッフの女性を宛てがうことをした。ホテルで一晩女性を好きにしていいから、今後もご贔屓に。そういうことだ。そして有村紘介の部屋に行かされたのが類子だった。
 彼女は何も聞かされずに部屋に向かい、彼と対面したところでオーナーの思惑を知った。だが店をクビになればもう働くところがないという気持ちから、紘介と関係を持ってしまう。ずっと真沙子を大事にしてきた彼が、何故その夜だけ羽目を外したのか分からないが、とにかくその一晩で貢本ができた。
 貢本を産んで、類子はなんとか一人で育てようと努力した。だが元々楽に出産ができるような身体ではなかった彼女は寝込み、どうしようもなくなって紘介に連絡する。それはすぐに真沙子の知るところとなった。
 真沙子は怒るより先に淡々と事実を調べ上げた。紘介から話を聞いて、いくつかの興信所を使って類子側の事情を徹底的に調べた。そう調査書で読んだとき、血の繋がりのない彼女と自分が同じことをしていると分かって、ふっと笑ってしまった。
 全てが店のオーナーの思惑だったこと、類子に有村の家庭を壊すつもりはないこと、そして出産によって類子の身体が弱っていること。
 全てを知ったあとの真沙子は菩薩のようだった。類子と赤ん坊を家の近くのアパートに引越しさせて、類子が働かなくていいだけの生活費を振り込んだ。類子と連絡を取り、体調が悪いときには自ら子守に行くこともして、弱い二人の生活を護ってくれた。調査書の報告は、少しずつ貢本の記憶とも合致していく。
 貢本が物心ついた頃には、類子は横になっていることが多かった。それでも真沙子が来たときには、どんなに体調が悪くてもベッドを降りて頭を下げる。真沙子はいつも、そんなことはしなくていい、うちの旦那が悪かったのだからと優しく笑っていた。小さな貢本にとっては、母親を助けてくれる優しい女性だった。
 貢本が五歳のとき、死期を悟った類子は真沙子の前で膝をついて懇願した。どうかこの子をよろしくお願いします。幼いなりに母親の必死な様子を感じて、貢本も真似をして頭を下げた。何も心配しなくていい。このことは任せなさい。類子の頭を上げさせながら、真沙子がそんなことを言った気がする。ありがとうございますと言って類子が泣くから、小さな貢本も泣いてしまった。
 そうして母親が亡くなり、貢本は有村の家に引き取られた。そこで初めて、七歳年上の有村と会うことになる。
 真沙子に呼ばれてリビングにやってきた彼は、綺麗な衣服を身に着けた背の高い少年だった。真沙子に似て華やかな顔立ちをしていて、肌も髪もそれまで見てきたどの人間よりも綺麗で、その佇まいに圧倒されてしまう。
「これが俺の弟?」
 初めて聞いた声は少し不機嫌だった。怖くなって真沙子の後ろに隠れてしまえば、顔を覗きこむように彼もついてくる。
「そうよ。謙くんよ。大事な弟だから、優しくしてあげてね」
 真沙子が紹介するように貢本の隣に立つから、漸く有村を正面から見た。
「……貢本謙です。よろしくお願いします」
 類子に教わっていた通りに挨拶をして頭を上げれば、少しきつそうに見えた彼の目が優しく細められる。
「子どもなんだから、そんなに礼儀正しくなくていい」
 そう言って笑った途端に、怖いと思った気持ちは消えた。ドキドキした。目の前で凝った作りの仕掛け絵本を広げられたみたいに、わくわくして、もっと見てみたいと思う。
「もういらなくなった本があるからやるよ。俺の部屋に来い」
「えっと……」
 行ってもいい? と真沙子の顔を見上げれば、彼女も優しく笑っていて、有村とこんな風に仲よくしていいのだと知った。
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