明日会えない恋人
つい出てしまった言葉に、しまったと思った。有村が目を細めてこちらを見る。その穏やかではない表情に慌ててしまう。
「あ、えっと、母さんとか」
「……そうだな」
貢本の失言を深追いすることもなく、有村は静かな表情で食事に戻った。怒っている訳ではなさそうだが、彼女とは部屋で一緒にご飯を食べたりしないの? と聞く勇気はない。すると言われても、彼女とはレストランで外食しかしないと言われても、結局傷つく自分を知っているから。
「ほら、やる」
彼がイカを一つくれて、そこでその話は終わりになった。多分貢本の言いたいことを分かっていながら、彼がそれに答えてくれることはない。
その夜彼はいつもより長く傍にいてくれた。貢本は片付けをする間も、窓側のソファーに座って、静かに部屋の中を見回している。
「お前、テレビ観ないのか?」
指摘されて苦笑した。リモコンは引き出しにしまいっぱなしで、コンセントまで抜いてあるのだから、バレるのは当然だ。
「観たい番組もないし」
「トモヤくんと話している方が楽しいからか?」
紅茶を運んだところで言われて、小さく肩が震えた。どう答えれば怒らせなくて済むだろうと考えるが、今夜の彼はそれ以上何か言うことはない。
「この紅茶、ちゃんと飲んでくれているんだな」
隣に座るように言って、彼の方が話を変えてくれた。誕生日に有村がくれた紅茶だ。シンプルなアールグレイが好きだと言ったのを覚えていて、専門店で買ってきてくれたのだ。ネットで調べれば自分には手が出なような高級品で、恐縮しながらもありがたくいただいている。
「これ、好きなんです」
「そうか」
満足げに笑って、彼は目を閉じて一度黙った。それから徐に立ち上がり、テレビのコンセントを差して簡単に配線を直してしまう。
「今度映画でも観よう。何か持ってくるから。どうせオンデマンドで買えたりしないんだろ?」
「すみません。契約していなくて」
興味がないからその方面には疎かった。有村が苦笑して、手早く帰り支度をしてしまう。
「悪かったな、謙」
見送るために玄関までついていけば、そこで突然詫びられた。
「なんの謝罪ですか?」
不安になって聞けば、彼が目を細めて貢本を見る。
「突然父さんがいなくなって、グループ会社もみんなばたばたして、この一年謙のことを考えてやる余裕がなかった」
「それは当然でしょう? 前も言いましたけど、俺には不満なんてありません」
「謙は優しいから、母さんの入院の世話も任せてしまった」
「俺の母さんでもあるし」
有村が何を言おうとしているのか分からない。分からないが、何か誤解をしているのなら、それを解いて安心させてあげなければと思う。
「兄さん」
「謙」
言葉が重なって、同時にふわりと抱き寄せられた。背の高い彼が少し低くなった玄関に立てば、廊下にいる貢本と同じくらいになって、いつもよりずっと彼が近くなる。
「これから二人で色々なものを見て、色々なものを食べような。休みの日はできるだけ出掛けよう」
「……うん」
嬉しいが、何故自分にそんなことを言うのだろうと不思議に思った。有村には結婚間近の恋人がいて、彼女と過ごす時間を何より大事にしなければならない筈だ。
「お前は一人じゃない。俺も母さんも傍にいる。それを忘れないでほしい」
「忘れたことなんてありません」
一体、今夜の彼はどうしてしまったのだろう。それでも、こうして彼に触れられるのは嬉しくて、彼のシャツを掴んで自分も身体を寄せてしまう。
「お休み」
しばらくそうしていて、一度貢本の髪を撫でてから彼は帰っていった。背中に彼の体温が残っている気がして、ドアが閉まった後もその場に立ち尽くしてしまう。
「兄さん」
腕を抱くようにして、抱き寄せられた感覚を思い返した。久しぶりに満たされた気持ちで眠りに就く。
何か一つ忘れているような気がしたが、それよりも有村は次いつ来てくれるだろうと、そう思っていた。
「あ、えっと、母さんとか」
「……そうだな」
貢本の失言を深追いすることもなく、有村は静かな表情で食事に戻った。怒っている訳ではなさそうだが、彼女とは部屋で一緒にご飯を食べたりしないの? と聞く勇気はない。すると言われても、彼女とはレストランで外食しかしないと言われても、結局傷つく自分を知っているから。
「ほら、やる」
彼がイカを一つくれて、そこでその話は終わりになった。多分貢本の言いたいことを分かっていながら、彼がそれに答えてくれることはない。
その夜彼はいつもより長く傍にいてくれた。貢本は片付けをする間も、窓側のソファーに座って、静かに部屋の中を見回している。
「お前、テレビ観ないのか?」
指摘されて苦笑した。リモコンは引き出しにしまいっぱなしで、コンセントまで抜いてあるのだから、バレるのは当然だ。
「観たい番組もないし」
「トモヤくんと話している方が楽しいからか?」
紅茶を運んだところで言われて、小さく肩が震えた。どう答えれば怒らせなくて済むだろうと考えるが、今夜の彼はそれ以上何か言うことはない。
「この紅茶、ちゃんと飲んでくれているんだな」
隣に座るように言って、彼の方が話を変えてくれた。誕生日に有村がくれた紅茶だ。シンプルなアールグレイが好きだと言ったのを覚えていて、専門店で買ってきてくれたのだ。ネットで調べれば自分には手が出なような高級品で、恐縮しながらもありがたくいただいている。
「これ、好きなんです」
「そうか」
満足げに笑って、彼は目を閉じて一度黙った。それから徐に立ち上がり、テレビのコンセントを差して簡単に配線を直してしまう。
「今度映画でも観よう。何か持ってくるから。どうせオンデマンドで買えたりしないんだろ?」
「すみません。契約していなくて」
興味がないからその方面には疎かった。有村が苦笑して、手早く帰り支度をしてしまう。
「悪かったな、謙」
見送るために玄関までついていけば、そこで突然詫びられた。
「なんの謝罪ですか?」
不安になって聞けば、彼が目を細めて貢本を見る。
「突然父さんがいなくなって、グループ会社もみんなばたばたして、この一年謙のことを考えてやる余裕がなかった」
「それは当然でしょう? 前も言いましたけど、俺には不満なんてありません」
「謙は優しいから、母さんの入院の世話も任せてしまった」
「俺の母さんでもあるし」
有村が何を言おうとしているのか分からない。分からないが、何か誤解をしているのなら、それを解いて安心させてあげなければと思う。
「兄さん」
「謙」
言葉が重なって、同時にふわりと抱き寄せられた。背の高い彼が少し低くなった玄関に立てば、廊下にいる貢本と同じくらいになって、いつもよりずっと彼が近くなる。
「これから二人で色々なものを見て、色々なものを食べような。休みの日はできるだけ出掛けよう」
「……うん」
嬉しいが、何故自分にそんなことを言うのだろうと不思議に思った。有村には結婚間近の恋人がいて、彼女と過ごす時間を何より大事にしなければならない筈だ。
「お前は一人じゃない。俺も母さんも傍にいる。それを忘れないでほしい」
「忘れたことなんてありません」
一体、今夜の彼はどうしてしまったのだろう。それでも、こうして彼に触れられるのは嬉しくて、彼のシャツを掴んで自分も身体を寄せてしまう。
「お休み」
しばらくそうしていて、一度貢本の髪を撫でてから彼は帰っていった。背中に彼の体温が残っている気がして、ドアが閉まった後もその場に立ち尽くしてしまう。
「兄さん」
腕を抱くようにして、抱き寄せられた感覚を思い返した。久しぶりに満たされた気持ちで眠りに就く。
何か一つ忘れているような気がしたが、それよりも有村は次いつ来てくれるだろうと、そう思っていた。