明日会えない恋人
「貢本、お前ドイツ語できるよな」
コール部門の主任の溝口から声を掛けられたのは、社内報の送信を済ませた午後の時間だった。ペーパーレス推進で社報も電子配信になり、十未来から送られてきたものをこの会社のスタッフ全員に送信していたのだ。
「日常会話くらいなら」
「じゃあ、ちょっと電話対応を頼めないか。内線なんだけど、どうやら十未来の外国人社員かららしくて」
「内線で外国人?」
不思議な気はしたが、とりあえず転送を受けてみれば、確かに電話の向こうの男がドイツ語を話していた。だが二言、三言交わせば、すぐにネイティブではないと分かってしまう。
彼の質問はごく簡単なものだった。有村社長はいますか? 今は外出中だと答えるが、彼は電話を切ってくれず、世間話のようなことをし出す。話に応じながら、グループ全体の内線表を検索すれば、十未来の二十代の男性社員が表示された。予想通りただの日本人だ。相手は貢本が十未来の内線表を閲覧できるとは思いもしないだろう。だが総務部員は意外に権限が広いのだ。害はないからしばらく付き合ってやってもいいが、貢本にも仕事がある。きっちり十分話して、そこで切り捨てることにした。
若いコールスタッフが困る声を聞いて満足できましたか? とドイツ語で聞いてやれば、電話の向こうが声をなくした。また掛ける、と最後の意地のように言って、漸く電話が切られる。
「助かったよ、貢本。結局なんだって?」
「悪戯電話みたいなものですよ。自分の語学力を披露したかったのか、ストレスが溜まっていたのか知りませんけど」
「凄いな、お前。今度奢る」
「奢る代わりに、今送信した社内報を見るようにスタッフに伝えてもらえますか? 見ないで消してしまう人も多いので」
そう言えば溝口が分かったと笑ってくれる。
「なぁ、貢本」
一度背を向けた彼が振り向いて、ふと真面目な顔を見せた。
「お前ってかなり優秀だよな。語学もできるし金融系の資格もいくつか持ってるんだろ? なんで……」
そこまで言って、彼がはっとしたように言葉を止める。
「いや、やっぱいいや」
「なんですか? あ、また来週辺り蛍光灯の交換をお願いするかも」
「了解。いつでも呼んでくれ」
軽い調子で言って、彼はコール部門に戻っていった。モニターに顔を戻せば暗くなっていて、パスワードを入れて元に戻す。
溝口の言いたいことは分かった。何故総務になんかいるんだと、そう言いたかったのだろう。彼のように顧客対応の最前線で働く人間には、総務は地味な部署に見える筈だ。だが総務の人間がいい加減な会社は、居心地が悪くて社員が居つかない。だからこの仕事で有村を支える。そう思って希望した部署なのだ。後悔はないし、有村から移動の指示がなければ続けるつもりでいる。そう思いながら、仕事を再開する。
告げ口のような気がして迷ったが、ドイツ語の電話の件は事務部門長に報告させてもらった。十未来の上司から叱られてしまうだろうが、また同じ被害を出さないためには仕方がない。
一人の部署で少し残業をして、七時少し前に職場ビルを出た。駅に着いたところで有村から連絡が入る。
水族館の日から、有村は本当に貢本の部屋を訪れるようになった。「今日、あいつは来ているか?」とメッセージが入って、いないと返せばすぐにやってくる。
来るときには、いつも珍しい料理を持ってきてくれた。炙り牛肉の寿司や無添加のイタリアンサラダや一人用の魚介鍋。料理の種類は違うが、いつもそんなものまでテイクアウトできるのかと驚くものばかり運んでくる。貢本は食に拘りがある方ではないし、弟に気を遣わなくていいと思うのだが、彼のお気に入りを二人で食べることができるのはやはり嬉しい。
考えてみれば、食にあまり興味がない知哉とは二人で食事をすることがなかった。彼が食べないなら自分も食べなくていいと思えて、貢本もそのまま寝てしまう。それが普通だと思ってきたから、知哉といるときとは違う時間に戸惑ってしまう。
「今日、十未来からの悪戯電話を撃退したんだって? 悪かったな。叔父さんに連絡しておいたから」
社長だから当然報告を受けたであろう彼に言われて苦笑した。
「あまり叱られないようにしてあげてくださいね」
「甘いんだよ、謙は。十未来はうちと違って大所帯だからな。社員全員に目が行き届いていないんだ。まぁ、害はなかったから、厳重注意くらいで済むように言っておいたけど」
そう言いながら、今夜テーブルに並べられるのは、飾り細工みたいな天ぷら御前だ。プラスチックの器には、貢本なら気後れしてしまいそうな有名和食店のロゴが入っている。
「……これ、おいしい」
海老の入ったかき揚に、思わず声が零れた。
「だろ? 味は全部旨いから、一番見た目のいいものを頼んできたんだ」
「弟相手に見た目なんて気にしなくてもいいでしょう?」
「見て綺麗なものの方が食欲も湧くだろう? もう最近は謙に旨いものを買って帰るのだけが楽しみだしな」
綺麗に箸を使いながら言われて、貢本の方は箸が止まってしまう。
「もっといいものを買っていく人がいるでしょう?」
コール部門の主任の溝口から声を掛けられたのは、社内報の送信を済ませた午後の時間だった。ペーパーレス推進で社報も電子配信になり、十未来から送られてきたものをこの会社のスタッフ全員に送信していたのだ。
「日常会話くらいなら」
「じゃあ、ちょっと電話対応を頼めないか。内線なんだけど、どうやら十未来の外国人社員かららしくて」
「内線で外国人?」
不思議な気はしたが、とりあえず転送を受けてみれば、確かに電話の向こうの男がドイツ語を話していた。だが二言、三言交わせば、すぐにネイティブではないと分かってしまう。
彼の質問はごく簡単なものだった。有村社長はいますか? 今は外出中だと答えるが、彼は電話を切ってくれず、世間話のようなことをし出す。話に応じながら、グループ全体の内線表を検索すれば、十未来の二十代の男性社員が表示された。予想通りただの日本人だ。相手は貢本が十未来の内線表を閲覧できるとは思いもしないだろう。だが総務部員は意外に権限が広いのだ。害はないからしばらく付き合ってやってもいいが、貢本にも仕事がある。きっちり十分話して、そこで切り捨てることにした。
若いコールスタッフが困る声を聞いて満足できましたか? とドイツ語で聞いてやれば、電話の向こうが声をなくした。また掛ける、と最後の意地のように言って、漸く電話が切られる。
「助かったよ、貢本。結局なんだって?」
「悪戯電話みたいなものですよ。自分の語学力を披露したかったのか、ストレスが溜まっていたのか知りませんけど」
「凄いな、お前。今度奢る」
「奢る代わりに、今送信した社内報を見るようにスタッフに伝えてもらえますか? 見ないで消してしまう人も多いので」
そう言えば溝口が分かったと笑ってくれる。
「なぁ、貢本」
一度背を向けた彼が振り向いて、ふと真面目な顔を見せた。
「お前ってかなり優秀だよな。語学もできるし金融系の資格もいくつか持ってるんだろ? なんで……」
そこまで言って、彼がはっとしたように言葉を止める。
「いや、やっぱいいや」
「なんですか? あ、また来週辺り蛍光灯の交換をお願いするかも」
「了解。いつでも呼んでくれ」
軽い調子で言って、彼はコール部門に戻っていった。モニターに顔を戻せば暗くなっていて、パスワードを入れて元に戻す。
溝口の言いたいことは分かった。何故総務になんかいるんだと、そう言いたかったのだろう。彼のように顧客対応の最前線で働く人間には、総務は地味な部署に見える筈だ。だが総務の人間がいい加減な会社は、居心地が悪くて社員が居つかない。だからこの仕事で有村を支える。そう思って希望した部署なのだ。後悔はないし、有村から移動の指示がなければ続けるつもりでいる。そう思いながら、仕事を再開する。
告げ口のような気がして迷ったが、ドイツ語の電話の件は事務部門長に報告させてもらった。十未来の上司から叱られてしまうだろうが、また同じ被害を出さないためには仕方がない。
一人の部署で少し残業をして、七時少し前に職場ビルを出た。駅に着いたところで有村から連絡が入る。
水族館の日から、有村は本当に貢本の部屋を訪れるようになった。「今日、あいつは来ているか?」とメッセージが入って、いないと返せばすぐにやってくる。
来るときには、いつも珍しい料理を持ってきてくれた。炙り牛肉の寿司や無添加のイタリアンサラダや一人用の魚介鍋。料理の種類は違うが、いつもそんなものまでテイクアウトできるのかと驚くものばかり運んでくる。貢本は食に拘りがある方ではないし、弟に気を遣わなくていいと思うのだが、彼のお気に入りを二人で食べることができるのはやはり嬉しい。
考えてみれば、食にあまり興味がない知哉とは二人で食事をすることがなかった。彼が食べないなら自分も食べなくていいと思えて、貢本もそのまま寝てしまう。それが普通だと思ってきたから、知哉といるときとは違う時間に戸惑ってしまう。
「今日、十未来からの悪戯電話を撃退したんだって? 悪かったな。叔父さんに連絡しておいたから」
社長だから当然報告を受けたであろう彼に言われて苦笑した。
「あまり叱られないようにしてあげてくださいね」
「甘いんだよ、謙は。十未来はうちと違って大所帯だからな。社員全員に目が行き届いていないんだ。まぁ、害はなかったから、厳重注意くらいで済むように言っておいたけど」
そう言いながら、今夜テーブルに並べられるのは、飾り細工みたいな天ぷら御前だ。プラスチックの器には、貢本なら気後れしてしまいそうな有名和食店のロゴが入っている。
「……これ、おいしい」
海老の入ったかき揚に、思わず声が零れた。
「だろ? 味は全部旨いから、一番見た目のいいものを頼んできたんだ」
「弟相手に見た目なんて気にしなくてもいいでしょう?」
「見て綺麗なものの方が食欲も湧くだろう? もう最近は謙に旨いものを買って帰るのだけが楽しみだしな」
綺麗に箸を使いながら言われて、貢本の方は箸が止まってしまう。
「もっといいものを買っていく人がいるでしょう?」