明日会えない恋人

 つい必死になってしまった。貢本が嫌々働いているとでも思ったのだろうか。だとしたら、それは哀しいくらい酷い誤解だ。
「それならいいんだ」
「俺、何かいけないことをしましたか?」
「いや」
 混乱で子どものような顔を見せていたのかもしれない。有村がふっと笑って、そのままセンターコンソールを越えて貢本の身体を抱き寄せる。
「兄さん?」
 戸惑う貢本を、彼は更に腕に力を籠めて抱いた。逃げないと分かったのか、右手で貢本の髪を撫でながら言う。
「最近、謙を都合よく使ってしまっていたのかなって思うんだ。今更だけどな。でも俺も母さんもそんなつもりはなくて、謙を一人の人間として大事に思っている。それを言っておきたくて」
「都合よくなんて、思う訳がないでしょう? どうして突然そんなことを言うんですか?」
「いや」
 貢本の問いには答えずに、彼がそっと身体を離す。
「謙」
 今度はまっすぐ目を合わせられた。何も悪いことはしていないのに、そうされれば何故か逃げ出したくなる。間違っていることをしている自分を、彼が元の場所に戻そうとしてくれているような感覚に囚われる。
「部屋に行っちゃダメか? 夜まで二人でいたい」
 また彼は貢本が困ることを言った。ダメではない。見られて困るものもないし、兄が弟の部屋を尋ねることになんの問題もない。けれど。
「あいつが来ているのか?」
 貢本の心を読んだ彼が先に言う。知哉がこんな昼間から来ることは珍しいが、休日ならひょっこりやってくることもなくはなかった。有村と知哉は互いを嫌っている。もし彼が部屋にいれば、よくないことが起こりそうで怖い。
「分かった」
 意外にもあっさり有村が引いてくれた。
「けど、これから時々謙の部屋に行きたい。父さんが死んだ後のばたばたも一通り済んだし、謙とゆっくり話す時間を持ちたい。ダメか?」
「いえ」
「ちゃんと事前に連絡を入れる。あの男がいるときは断ってくれていい」
知哉を嫌いな彼がそこまで言ってくれることが意外だった。知哉のことがなければ、有村との時間を持てることは嬉しい。社長と従業員という立場を弁えているが、貢本にとって彼は特別な存在なのだ。
「またな」
「はい」
 言い争ったことなど、遠い昔のことのような気がした。またなという言葉に、擽ったいものを感じながら部屋に戻る。
 知哉はいなかったが、不思議と寂しいとは思わなかった。有村が貢本といたいと言ってくれた。その事実にふわふわとした気分になる。次に知哉が来たとき、休日に有村が来るかもしれないと伝えておけばいい。知哉は勘がいいから、一度伝えれば有村と鉢合わせすることはない。
 いつも知哉がいる椅子に座って、テーブルについた腕に頬を寄せた。そうしていれば、また脳裡に知哉ではなく有村の姿が浮かぶ。浮かぶまま目を閉じて、ずっと忘れたことにしていた記憶に浸る。
 あれは紘介の誕生日だった。多忙だった彼がその日は帰ってくると言い、真沙子がご馳走を作ると張り切った。有村と真沙子と三人で海の傍のスーパーに行き、紙袋に入った大量の食料品を車に運んだのだ。お手伝いのご褒美だとお菓子を買ってもらって、駐車場で中学生の有村が苦笑していた。
 家に帰って、二人で先にお風呂に入りなさいと言われた。二人で入るのは久しぶりで、なんだか緊張して長く湯船に浸かってしまう。貢本が八歳で、有村が十五歳だった。どうしても目にしてしまう彼の身体はもう充分大人のもので、同じ男だというのに落ち着かない気分になる。
 交代で身体を洗って戻り、バスタブの隅で小さくなっていれば、彼の腕が伸びて肌に触れられた。貢本を引き寄せて、後ろから抱きかかえるように胸に腕を回す。しばらくじゃれていたが、そのうち撫でるように脇腹に触れられた。
「……お兄ちゃん?」
「女みたいに綺麗な身体をしているよな、謙は」
 ドキドキした。お湯の中で掠める彼の身体に全身が熱くなる。
「俺、もう出よっかな」
 堪らなくなって出ようとするのを、抱きしめて止められた。
「ん……」
 胸に触れられて、身体の中心からおかしな感覚が湧き上がる。逃げ出したいのに、もっと触れてほしくなる。でもそれはいけないとなんとなく分かる。
「ダメ」
 胸を弄っていた指先が腹を通って中心に下りていく。そこに触れられれば叫び出してしまいそうで、必死に身を捩る。それでも彼はやめてくれない。そのうち背中に彼のものの存在を感じた。熱くて質量があるものに胸の音が強くなる。幼い貢本だったが、女性の肌や胸にそんな身体の反応が起こることは知っていた。その欲を有村が自分に向けていると知って、怖さよりも嬉しさが湧いてしまう。一度欲しくなれば、子どもにモラルなどなかった。
「謙」
 有村に促されてバスタブを出ると、彼がシャワーフックに掛けたままのシャワーを全開にする。水音が響く中で壁に背中を押しつけられる。
「お兄ちゃ……」
 身体を屈めるようにした彼に唇を塞がれた。
「ん……」
 キスをしたまま中心を擦るようにされて、堪らず彼の腕にしがみついた。もっと弄ってほしい。もっと気持ちよくなりたいと思う貢本の身体に気づいて、有村が自身のその部分を押しつけてくる。自分よりずっと大きいものに、胸が壊れそうに鳴った。ボディーソープを使って二人で擦り合って、最後は全身を震わせて初めての感覚に身を任せる。有村も同じだったと思う。息を乱しながらそっと触れたその部分が力をなくしていたから。自分の身体で満足してくれた。その事実が嬉しかった。シャワーが床を打ちつける空間で、もう一度キスをする。
「まずいな。俺、謙が欲しい」
「お兄ちゃん?」
 どうしてまずいの? と言う前に、シャワーで身体を流した彼がバスルームを出てしまった。シャワーが床を打つ音に包まれながら、身体の中心に自分で触れてみる。恥ずかしくて、ドキドキして、それでももう一度彼に触れてほしいと思う。彼のことで頭が一杯で、好物ばかりだった夕食の味がよく分からなかった晩。
 年を重ねて、あれがどれだけいけないことだったか分かるようになった。それでも恨む気持ちはない。逆に身体が成長するにつれて、また触れてほしい、相手は有村であってほしいという気持ちが強くなった。
 そんな貢本と違って、有村はしっかりモラルを自覚したようだった。あの日以来入浴や着替え中の貢本に近づこうとしなくなったし、戯れでもあまり触れなくなった。
 思春期の好奇心に任せた、意味のない行為だった。貢本なら誰にも言わないという計算もあった。それでも、一度でも欲しいと思ってくれた事実を胸にしまっておこうと思った。これから先も、欲しいと言われれば受け入れる。だが彼が将来を共にするパートナーを見つけたときには、口を噤んでただの弟でいる。
 そう決めていたのに、自分は想像より弱かった。弱くて、辛いことに耐えきれなくて、居心地のいい彼の傍にいる。
「兄さん」
 なんだか眠くなった。それ以上考えるのは面倒になって、テーブルに伏せたまま目を閉じる。
 眠ってしまっていい。今日知哉は来ない。眠りに落ちる前にそう思った。
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