明日会えない恋人
言われるまま呼吸を繰り返す貢本の背を、久野がゆっくりと擦ってくれる。
「謙!」
そこで後ろから声がして、彼から身体を離して目を向けた。
「何をしている?」
有村だった。何故ここにいるのか。それもどうやらかなり不機嫌らしい。
「心配ないって言っただろ? わざわざ見に来るなんて、口で言うよりずっと心配だったんだな」
驚いた様子もない久野が返せば、有村の不機嫌度は増す。
「誰がそういう意味で仲よくなれと言った。自分の仕事を忘れたか?」
友人にそんな言い方をする彼を見たことがなかった。
「兄さん」
「来い。お前は俺と帰る」
有無を言わさず腕を引かれて、イルカのプールを出ることになった。
「兄さん、待って。久野さんびしょ濡れで、だからタオルくらい……」
「黙れ。二人で濡れるようなことをして遊んでいたのか」
クールな彼に似つかわしくない台詞だった。何にそんなに怒っているのだろう。分からないが、これ以上怒らせる訳にはいかなくて、黙って彼に引かれていった。エレベーターで下りて地下駐車場に連れていかれる。
「乗れ」
言われるまま彼の車の助手席に収まった。
「あいつに惚れたか?」
「まさか」
「随分と仲がよさそうじゃないか」
エンジンを掛ける前に向けられた言葉に困惑した。貢本には知哉がいると知っているではないか。いや、知っていて久野とくっつけようとしていたのではなかったのか。
「兄さんが一緒に出掛けろと言ったんですよ。俺が好きなのは知哉だと知っているでしょう?」
「結局トモヤくんか」
蔑むような言い方だった。家族の贔屓目ではなく有村は人格者だ。父親が外に作った子どもの貢本にも、一度も辛く当たったことはない。それなのに、何故知哉が絡むと人が変わるのだろう。
「知哉が兄さんに迷惑を掛けたことなんてないでしょう?」
珍しく彼に言い返していた。
「どうして嫌いなのか知らないですけど、知哉を嫌いでも、放っておいてくれればいいのに」
思わず感情的になってしまう貢本に、有村も鋭い目を向ける。
「嫌い? そんな問題じゃないだろ。お前は……」
射抜かれるような目で見つめられて身体が震える。彼は酷く苛立っていて、その苛立ちのまま食い殺されてしまいそうな気がした。
「……悪い」
先に視線を外したのは有村だった。窓の外に顔を向けて一つ息を吐く。
「お前は、何?」
「いや、いい」
自分自身を落ち着かせるように言うと、彼はそのまま車を出してしまった。水族館前の通りを曲がって大通りに出てしまう。
まっすぐ送られると思ったのに、彼は貢本の家に行くのとは別の道を走り出した。言い合った気まずさから何も言えずに外を見ていれば、景色は海の見える場所へと変わる。砂浜の海ではなく、柵で囲われたコンクリートの向こうに静かに海が広がっている。波もほとんどなくて、水の色も透明度が高いとは言えない。それでも、傍に海があると思うだけで不思議と非日常的な気分になる。貢本のそんな気持ちが分かるのか、有村はゆっくりと車を走らせてくれる。
「昔、こんな海の傍に大きなスーパーがあったな」
静かに言われて、彼の横顔に視線を遣った。休日だから髪を下ろした彼の姿には、男の色気を感じる。綺麗なのに男らしい顔立ちに、荒れることのない肌と手入れの行き届いたジャケット。どれを見ても、彼が忙しいなりにきちんとした生活を送っていることが分かる。本来なら、貢本がこうして傍にいられるような人間ではないのだ。
「輸入食品の店でしたね。母さんによく連れていってもらった」
どうやら怒りは静まったらしいと分かって、貢本も静かに応えた。幼い頃、よく真沙子の運転する車で買いものに行った。有村が来ることは滅多になかったが、重いものや大量の買いもののときにはついてきていて、分かりにくいが母親思いなのだと知ったのだ。
「珍しい野菜があったな。いつのまにかなくなって、別の店が建っていたけど」
「兄さんが家を出てすぐ閉店したんですよ。母さんが凄く残念がっていたな」
自然と気まずい空気は消えていた。真沙子の話や会社の当たり障りのない話をしながら、車は慣れた景色に戻っていく。いい機会だから、会社が統合して総務の自分はいらなくなるのかと聞こうとしたが、やめておいた。せっかく穏やかに戻った空気をまた乱す必要はない。
「謙」
部屋の前まで送ってもらい、降りようとしたのを止められた。言葉を選ぶようにして、彼が静かに聞いてくる。
「謙は有村の家に来て辛かったか? 俺と母親は、ずっと謙に窮屈な思いをさせてしまったか?」
「まさか」
思いも寄らない問いだった。そんなことを思う筈がない。真沙子は病弱だった貢本の実母を助けてくれたし、彼女を亡くして一人になったあとは実の子どものように可愛がってくれた。有村にも弟として大事にしてもらった。
「俺の会社に入ったことはどうだ? 本当は他にやりたいことがあったんじゃないのか?」
「ないよ。兄さんの会社で働いてくれないかと言われて、俺は嬉しかった。嘘じゃない」
「謙!」
そこで後ろから声がして、彼から身体を離して目を向けた。
「何をしている?」
有村だった。何故ここにいるのか。それもどうやらかなり不機嫌らしい。
「心配ないって言っただろ? わざわざ見に来るなんて、口で言うよりずっと心配だったんだな」
驚いた様子もない久野が返せば、有村の不機嫌度は増す。
「誰がそういう意味で仲よくなれと言った。自分の仕事を忘れたか?」
友人にそんな言い方をする彼を見たことがなかった。
「兄さん」
「来い。お前は俺と帰る」
有無を言わさず腕を引かれて、イルカのプールを出ることになった。
「兄さん、待って。久野さんびしょ濡れで、だからタオルくらい……」
「黙れ。二人で濡れるようなことをして遊んでいたのか」
クールな彼に似つかわしくない台詞だった。何にそんなに怒っているのだろう。分からないが、これ以上怒らせる訳にはいかなくて、黙って彼に引かれていった。エレベーターで下りて地下駐車場に連れていかれる。
「乗れ」
言われるまま彼の車の助手席に収まった。
「あいつに惚れたか?」
「まさか」
「随分と仲がよさそうじゃないか」
エンジンを掛ける前に向けられた言葉に困惑した。貢本には知哉がいると知っているではないか。いや、知っていて久野とくっつけようとしていたのではなかったのか。
「兄さんが一緒に出掛けろと言ったんですよ。俺が好きなのは知哉だと知っているでしょう?」
「結局トモヤくんか」
蔑むような言い方だった。家族の贔屓目ではなく有村は人格者だ。父親が外に作った子どもの貢本にも、一度も辛く当たったことはない。それなのに、何故知哉が絡むと人が変わるのだろう。
「知哉が兄さんに迷惑を掛けたことなんてないでしょう?」
珍しく彼に言い返していた。
「どうして嫌いなのか知らないですけど、知哉を嫌いでも、放っておいてくれればいいのに」
思わず感情的になってしまう貢本に、有村も鋭い目を向ける。
「嫌い? そんな問題じゃないだろ。お前は……」
射抜かれるような目で見つめられて身体が震える。彼は酷く苛立っていて、その苛立ちのまま食い殺されてしまいそうな気がした。
「……悪い」
先に視線を外したのは有村だった。窓の外に顔を向けて一つ息を吐く。
「お前は、何?」
「いや、いい」
自分自身を落ち着かせるように言うと、彼はそのまま車を出してしまった。水族館前の通りを曲がって大通りに出てしまう。
まっすぐ送られると思ったのに、彼は貢本の家に行くのとは別の道を走り出した。言い合った気まずさから何も言えずに外を見ていれば、景色は海の見える場所へと変わる。砂浜の海ではなく、柵で囲われたコンクリートの向こうに静かに海が広がっている。波もほとんどなくて、水の色も透明度が高いとは言えない。それでも、傍に海があると思うだけで不思議と非日常的な気分になる。貢本のそんな気持ちが分かるのか、有村はゆっくりと車を走らせてくれる。
「昔、こんな海の傍に大きなスーパーがあったな」
静かに言われて、彼の横顔に視線を遣った。休日だから髪を下ろした彼の姿には、男の色気を感じる。綺麗なのに男らしい顔立ちに、荒れることのない肌と手入れの行き届いたジャケット。どれを見ても、彼が忙しいなりにきちんとした生活を送っていることが分かる。本来なら、貢本がこうして傍にいられるような人間ではないのだ。
「輸入食品の店でしたね。母さんによく連れていってもらった」
どうやら怒りは静まったらしいと分かって、貢本も静かに応えた。幼い頃、よく真沙子の運転する車で買いものに行った。有村が来ることは滅多になかったが、重いものや大量の買いもののときにはついてきていて、分かりにくいが母親思いなのだと知ったのだ。
「珍しい野菜があったな。いつのまにかなくなって、別の店が建っていたけど」
「兄さんが家を出てすぐ閉店したんですよ。母さんが凄く残念がっていたな」
自然と気まずい空気は消えていた。真沙子の話や会社の当たり障りのない話をしながら、車は慣れた景色に戻っていく。いい機会だから、会社が統合して総務の自分はいらなくなるのかと聞こうとしたが、やめておいた。せっかく穏やかに戻った空気をまた乱す必要はない。
「謙」
部屋の前まで送ってもらい、降りようとしたのを止められた。言葉を選ぶようにして、彼が静かに聞いてくる。
「謙は有村の家に来て辛かったか? 俺と母親は、ずっと謙に窮屈な思いをさせてしまったか?」
「まさか」
思いも寄らない問いだった。そんなことを思う筈がない。真沙子は病弱だった貢本の実母を助けてくれたし、彼女を亡くして一人になったあとは実の子どものように可愛がってくれた。有村にも弟として大事にしてもらった。
「俺の会社に入ったことはどうだ? 本当は他にやりたいことがあったんじゃないのか?」
「ないよ。兄さんの会社で働いてくれないかと言われて、俺は嬉しかった。嘘じゃない」