明日会えない恋人

 久野と向かったのは、屋外にある大きな水族館だった。イルカのショーがあって、家族連れで賑わっている。
「思ったより混んでいるね。騒がしい場所は嫌いじゃなかった?」
 ショー終わりのプールの客席に座っていれば、久野が買ってきた飲みものを差し出してくれた。やはり優しくて、傍にいて落ち着く人だと思う。
「いえ。普段家にばかりいるから、こんな華やかな場所は久しぶりで楽しいです」
「ならよかった」
 ショーを終えたイルカが自由に泳ぎ回るプールを眺めながら、なんでもない話をする。穏やかなイメージを持っていたが、イルカはびっくりするほどのスピードで、丸いプールを泳ぎ回る。
「この歳になると、歩き回るよりこうしてお茶を飲みながらイルカを眺めている方がいいね」
 どこから見てもモテそうな容姿で言われて笑ってしまう。
「久野さんは兄さんの同級生なんですか?」
「そう。もう三四歳」
「まだ若いじゃないですか」
 そこで一頭のイルカが飛び上がって水飛沫を上げる。
「ねぇ、鈴木くんのことをもう少し聞いていいかな」
 イルカが潜って静かになったところで、少し彼の声音が変わった。頷くが、やはり自分に気があるのだろうかと思って困ってしまう。
「再会したのは偶然?」
「そうですね。買いもの帰りに公園にいるのを見掛けて、声を掛けたら彼も俺のことを覚えていてくれて。それから会うようになって」
 公園で話して、会っていなかった時間が嘘のように打ち解けた。その後貢本の家に来るようになるまで、さして時間は掛からなかった。
「十年ぶりくらいだったんだよね。よく分かったね」
「なんだか俺のイメージ通りの大人になっていたんです。中学生のときのまま、真面目で穏やかな感じで」
 何故そこまで聞くのだろうと不思議に思う貢本の傍で、久野は彼らしくない難しい顔をして顎に手をやった。首を傾げて見つめれば、彼もこちらに顔を向ける。
「夜にやってきて、話を聞いてくれるだけかな? キスやセックスをすることはある?」
「え?」
 熱や咳はある? と聞くように、さらりと聞かれた。貢本の方は平静でいられない。何故、彼にそこまで答えなければならないのだろう。
「あの、俺、今日はもう」
「待って」
 立ち上がろうとしたのを、手を取って止められた。
「ごめん。ちょっと踏み込みすぎたね。じゃあ、別の質問。彼の声を聞くことはあるんだよね? 彼に触れることは?」
「離してください」
 急に久野が恐ろしくなった。手を払おうと必死になる貢本に、彼の方が慌てて離れる。
「ごめん。困らせるつもりはなかったんだ」
 おどけた調子で両手を上げてみせて、彼はまたプールに顔を向けた。逃げてしまおうかと思ったが、嘘を言っているようには見えないから貢本も座り直す。ここで帰れば有村に迷惑が掛かると分かっていた。今後職場で会うかもしれない人だから、切り捨てる訳にはいかない。
「なんか、俺の医者の堪も鈍っているみたいだな」
 もう知哉の話をする気はないらしかった。カップのコーヒーを飲みながら、彼が自分自身に呆れるように言う。この流れで何故そんな話になるのだろうと思うが、興味深くもあって聞いてみる。
「勤務医をしていた頃に比べてってことですか?」
「そう」
「でも非常勤で仕事は続けているんですよね?」
「まぁ、そうだけど。大きな病院にいたときの方が、能力にキレがあったというか、力が研ぎ澄まされていたというか。非常勤でも手は抜いていないつもりだったけど、どこか気が抜けているんだろうね」
「お医者様も大変なんですね」
 無難な言葉を返しながら、彼の台詞のどこかに引っ掛かった気がした。だがそこで、いつの間にかすぐ前まで来ていたイルカが気紛れのように飛び上がる。そのまま弧を描いて水の中に戻るから、派手な水飛沫が上がった。
「わ!」
 びしょ濡れを覚悟した貢本の身体を、久野が包むように護ってくれる。
「久野さん!」
 顔を上げれば悠々とプールの中央に帰っていくイルカをバックに、せっかくのいいシャツを濡らした久野が苦笑していた。
「嘘。どうしよう。俺に構わず避ければよかったのに」
「そうはいかないでしょ」
 濡れたことなど気にしていないというように彼が笑う。だが貢本の方は落ち着いていられない。
「ハンカチ、じゃダメか。待っていてください。お土産売場でタオルを買ってきます」
「いや、いいよ」
 走りかけた貢本の手を彼が強く引く。慌てていた身体がバランスを崩して、久野が腕に包むように抱き留めてくれる。
「すみません!」
「おっと」
 離れようとして今度は濡れた足元に躓きそうになって、また久野に抱き寄せられた。背中に腕を回された身体が密着して、胸がバクバクいっている。
「俺の前では楽にしていいって言ったでしょう? はい、深呼吸」
 二度も三度も助けてもらえば、もう従うしかないような気がして、素直に息を吸って吐いた。
「ね? 少しは楽になったでしょう? はい、もう一度」
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