明日会えない恋人
子どもの頃に読んで、忘れられない絵本がある。
辛い人生を生きていた主人公が異世界の人間と親しくなって、幸せな一週間を経験する。そして元の世界に帰らなければならなくなった彼に、一緒に自分の世界に来ないかと誘われる。二度と戻れないけれど、今いる世界よりはずっと幸せになれる。こんな辛い世界にいても仕方がないでしょう? そう言われた主人公は悩む。けれど結局、今いる世界に留まることを選んでしまう。
それなりのハッピーエンドだったと思う。だが幼い貢本には不思議だった。今よりずっと幸せになれるのに。ずっと辛い世界で生きてきたのにどうして?
自分なら何もかも捨てて異世界の人間と行く。今いる世界に未練はないから、新しい世界で存分に幸せになる。
抱いた気持ちは、大人になった今でも変わらない。
総務部員には記憶力と臨機応変さ、そして忍耐力が求められる。
地味な仕事のようで経験値が必要なのだと、遅い昼休憩に向かいながら貢本 は思う。
高層ビルのワンフロアを借りて運営しているカードローン会社。スタッフ五十人ほどだが、蛍光灯が切れたりスタッフがIDカードを忘れたり、手洗いの水の出が悪くなったりロッカーが開かなくなったり、それら全てを総務が解決しなければならない。貢本と若い女性社員の二人で回しているのだから、よく頑張っていると思う。と、その日も自分で自分を褒めながら、遅い昼休憩に立つ。
「あ、貢本さん」
執務室を出たところで、その後輩社員の立花に声を掛けられた。
「今日はすみませんでした。コピー用紙の運搬を全部やってもらって」
律儀に頭を下げてくるから、笑って顔の前で手を振ってやる。
「一応男だから、力仕事は問題ないよ。それに遅延証のチェックを纏めてやってくれたでしょう? あれ、助かった」
そう言えば彼女も控えめに笑ってくれる。一応貢本が主任で彼女が部下ということになっているが、たった二人の部署なのでただの同僚のように接してもらっている。貢本に負けないくらい地味で静かな彼女だが、きちんと働いてくれるから、その点は恵まれていたと思う。
「あの、近いうちにお話したいことがあるので時間を作っていただけませんか?」
改まって言われて、頭の中に一つの可能性が浮かんだ。もしかして結婚するのだろうか。となれば氏名が変わった場合の、保険証やIDカードや給与口座の変更は貢本の仕事になる。
「急ぎなら今日とか明日でもいいけど」
「いえ。月末は仕事が立て込むので、九月に入ってからでいいんです」
「そう? じゃあ、九月になったら声を掛ける」
頷けば彼女がほっとしたように息を吐く。
「はい。すみません。休憩時間にお引き止めして」
「いえいえ。じゃあ、一時間よろしく」
執務室に戻る彼女に言ってエレベーターに向かう。総務部員はいつ呼ばれるか分からないので、いつも交代で休憩を取っているのだ。
「貢本」
そこで今度は社長の有村に声を掛けられた。ここ株式会社トミライの社長、有村紘一朗 。貢本より十センチ以上の長身に、オーダーメイドのスーツがよく似合っている。コントラストの強い目に、瞳と同じ色の黒髪。整髪料で後ろに流したスタイルは、同じ男の貢本も憧れてしまうくらいサマになっている。
「ちょっといいか」
手招きされて、執務室とは別にある社長室に入った。
「母さんのことだけど、見舞いに行く予定はあるか?」
ドアを閉めてすぐにそう聞かれる。
「はい。今日の仕事帰りに行こうと思っていました」
「そうか。いつも任せて悪いな。何かあったら電話をくれ」
「このところ体調がいいと言っていましたし、問題ないと思います。個室だし、電話も許可されているんですから、心配なら社長が直接電話してあげればいいのに。母さんも喜びますよ」
「あの母親はお前の方が喜ぶんだよ。それより、二人のときは社長はやめてくれ」
そんな、いつもの台詞に困って苦笑する。
「社内で兄さんと呼び始めると、執務室でもうっかり呼んでしまいそうで怖いんですよ。ボロを出すくらいなら、プライベートでもずっと社長の方がいいでしょう?」
「勘弁してくれ。……ああ、悪い。休憩時間だったな」
「いいえ」
一時間ある休憩時間が数分減っても怒りはしないのに、社長に立花と同じことを言われておかしくなる。
「今度ご飯に行こう。お前に話したいことがあるんだ」
「分かりました。こっちはいつでもいいので、連絡をください」
軽く頭を下げて社長室を後にする。別に総務部員が社長室から出てきてもおかしくはないが、なんとなく傍に人がいないのを確認してから廊下に戻る。
話したいこととはなんだろう。何を言われても彼の言うことを聞くだけなのだが、改まって言われれば少し恐くなる。そんな自分は臆病すぎるだろうか。
エレベーターを待つ間に見た窓の外には、有村のネクタイのストライプと同じ色の空が広がっていた。彼は青が似合う。今日のネクタイもよく似合っていた。
彼と話ができたから、午後の仕事はスムーズに進む。そんな気がして、一人のエレベーターで少しだけ表情を緩めるのだった。
辛い人生を生きていた主人公が異世界の人間と親しくなって、幸せな一週間を経験する。そして元の世界に帰らなければならなくなった彼に、一緒に自分の世界に来ないかと誘われる。二度と戻れないけれど、今いる世界よりはずっと幸せになれる。こんな辛い世界にいても仕方がないでしょう? そう言われた主人公は悩む。けれど結局、今いる世界に留まることを選んでしまう。
それなりのハッピーエンドだったと思う。だが幼い貢本には不思議だった。今よりずっと幸せになれるのに。ずっと辛い世界で生きてきたのにどうして?
自分なら何もかも捨てて異世界の人間と行く。今いる世界に未練はないから、新しい世界で存分に幸せになる。
抱いた気持ちは、大人になった今でも変わらない。
総務部員には記憶力と臨機応変さ、そして忍耐力が求められる。
地味な仕事のようで経験値が必要なのだと、遅い昼休憩に向かいながら
高層ビルのワンフロアを借りて運営しているカードローン会社。スタッフ五十人ほどだが、蛍光灯が切れたりスタッフがIDカードを忘れたり、手洗いの水の出が悪くなったりロッカーが開かなくなったり、それら全てを総務が解決しなければならない。貢本と若い女性社員の二人で回しているのだから、よく頑張っていると思う。と、その日も自分で自分を褒めながら、遅い昼休憩に立つ。
「あ、貢本さん」
執務室を出たところで、その後輩社員の立花に声を掛けられた。
「今日はすみませんでした。コピー用紙の運搬を全部やってもらって」
律儀に頭を下げてくるから、笑って顔の前で手を振ってやる。
「一応男だから、力仕事は問題ないよ。それに遅延証のチェックを纏めてやってくれたでしょう? あれ、助かった」
そう言えば彼女も控えめに笑ってくれる。一応貢本が主任で彼女が部下ということになっているが、たった二人の部署なのでただの同僚のように接してもらっている。貢本に負けないくらい地味で静かな彼女だが、きちんと働いてくれるから、その点は恵まれていたと思う。
「あの、近いうちにお話したいことがあるので時間を作っていただけませんか?」
改まって言われて、頭の中に一つの可能性が浮かんだ。もしかして結婚するのだろうか。となれば氏名が変わった場合の、保険証やIDカードや給与口座の変更は貢本の仕事になる。
「急ぎなら今日とか明日でもいいけど」
「いえ。月末は仕事が立て込むので、九月に入ってからでいいんです」
「そう? じゃあ、九月になったら声を掛ける」
頷けば彼女がほっとしたように息を吐く。
「はい。すみません。休憩時間にお引き止めして」
「いえいえ。じゃあ、一時間よろしく」
執務室に戻る彼女に言ってエレベーターに向かう。総務部員はいつ呼ばれるか分からないので、いつも交代で休憩を取っているのだ。
「貢本」
そこで今度は社長の有村に声を掛けられた。ここ株式会社トミライの社長、
「ちょっといいか」
手招きされて、執務室とは別にある社長室に入った。
「母さんのことだけど、見舞いに行く予定はあるか?」
ドアを閉めてすぐにそう聞かれる。
「はい。今日の仕事帰りに行こうと思っていました」
「そうか。いつも任せて悪いな。何かあったら電話をくれ」
「このところ体調がいいと言っていましたし、問題ないと思います。個室だし、電話も許可されているんですから、心配なら社長が直接電話してあげればいいのに。母さんも喜びますよ」
「あの母親はお前の方が喜ぶんだよ。それより、二人のときは社長はやめてくれ」
そんな、いつもの台詞に困って苦笑する。
「社内で兄さんと呼び始めると、執務室でもうっかり呼んでしまいそうで怖いんですよ。ボロを出すくらいなら、プライベートでもずっと社長の方がいいでしょう?」
「勘弁してくれ。……ああ、悪い。休憩時間だったな」
「いいえ」
一時間ある休憩時間が数分減っても怒りはしないのに、社長に立花と同じことを言われておかしくなる。
「今度ご飯に行こう。お前に話したいことがあるんだ」
「分かりました。こっちはいつでもいいので、連絡をください」
軽く頭を下げて社長室を後にする。別に総務部員が社長室から出てきてもおかしくはないが、なんとなく傍に人がいないのを確認してから廊下に戻る。
話したいこととはなんだろう。何を言われても彼の言うことを聞くだけなのだが、改まって言われれば少し恐くなる。そんな自分は臆病すぎるだろうか。
エレベーターを待つ間に見た窓の外には、有村のネクタイのストライプと同じ色の空が広がっていた。彼は青が似合う。今日のネクタイもよく似合っていた。
彼と話ができたから、午後の仕事はスムーズに進む。そんな気がして、一人のエレベーターで少しだけ表情を緩めるのだった。
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