駆け引きトライアングル

 つまり偶然ではなく狙ったということだ。何故プライベートでもこの男と会わなければならない。そう思うが、戸倉の前で不満を言う訳にもいかない。
「じゃあ、俺はそろそろ」
 水入らずで話すこともあるだろうからと、いい人のフリをして去ろうとすれば、無駄にめげない精神の彼が追いかけてくる。
「俺昼食まだなんです。よかったら一緒にどうですか?」
「俺はもう食べたあとなので」
「あらそれなら」
 なんとか逃げ帰ろうとする富田に、戸倉の無情な提案が続く。
「ここの併設のレストランがお勧めよ。ご飯もお茶も充実しているから。煌には社会人として足りないところがあるから、富田くんに一般常識というものを教えてもらいなさい」
「うん。じゃあ、お見舞いはまた明日も来るから」
 そう背中を押されて病室を出る羽目になった。
「……帰ってもいいかな、俺?」
 廊下に出たところで言えば、彼が面白そうに眉を上げる。
「ダメに決まっているでしょ。帰っちゃったら伯母さんに言いつけるよ。そしたら哀しむだろうね」
 これだから無駄に頭の回転が速い人間の相手は困る。だがここで折れれば今後もずるずると行きそうで、一度けじめをつけておきたい。
「用事があるので」
「嘘ばっかり。ねぇ、俺、奢るからさ」
「年下のバイトに奢られて嬉しい訳がないでしょう?」
「そんな言い方寂しいって。じゃあ、さっき言っていた、俺が銀行を辞めた理由を話すってことでどう?」
 それには心が動いた。本人にとってはタブーかと思っていたが、どうやらそうでもないらしい。
「分かりました。でも、俺はお茶だけですよ」
「充分。充分」
 そんな訳で彼とレストランに向かうことになった。病院関係者も外部の人間も利用できるオープンスペースは、病院併設とは思えないほど明るく綺麗な造りで、メニューも驚くほど充実していた。紅茶の種類も沢山あって、ふと思い出してアッサムのミルクティーをオーダーしてみる。
「あ、昨日の依頼人の紅茶だね」
 鋭く指摘されて、彼の観察力の鋭さを実感する。
「ご飯食べないんですか?」
 がっつり肉系のメニューでも頼むかと思ったのに、彼も富田と同じ紅茶とスコーンをオーダーしてメニュー表を閉じてしまった。
「気になる相手の前でがつがつ食べるのも品がないし」
「そういう冗談は本気でやめた方がいいと思いますよ。オオカミ少年の話を知っているでしょう? 本当に好きな人ができたときに信用してもらえなくなる」
「別にいいよ。富田さんが本当に好きな人になりそうだし」
 一体いつまでこの質の悪い冗談は続くのだろう。反論するだけ無駄だと分かっているから、その話は流してしまう。
「で、どんな理由で銀行を辞めたんですか? お給料だってよかったでしょう?」
「別にお金には困っていないから」
 ああ、そうかと思う。戸倉の一族なら煌も資産家なのだ。お金には困っていない。一般人の富田には羨ましい限りだ。普通の社会人だから富田もお金には困っていないが、諸事情から前職を退職する羽目になったときには、これから先の暮らしを考えて胃が痛くなったものだ。彼にはそんな心配もないのだろう。それでも、M銀行ならそこで働いている優越感もあった筈だ。彼にとっては、それも些細なことだったのだろうか。
「きっかけは団信だんしんかな」
 紅茶とスコーンがやってきたところで、意外にもきちんと彼が話し出した。
「団信って、住宅ローンですか?」
 ローンの契約者が亡くなったあと、家族がその後の支払いを背負わなくてもいいように掛けておく保険のようなものだ。
「そう。旦那が亡くなった翌日に、笑顔で支払い免除の手続きをお願いしますってやってきた奥様を見て、つい『哀しむフリくらいしろよ』と言ってしまった。もちろん激クレームで怒られて、いい機会だから辞めようと思ったって訳。まぁ、入行した翌週には失敗したなと思っていたような俺だから、遅かったくらいだけどね」
 これもまた意外なことに、人情味のある退職理由だった。年齢から考えれば、なんだかんだで四年は勤めたのだ。単に我慢の利かない変わり者という訳ではなかったのだろう。
「そうですか。辛いことを思い出させたのならすみません」
「全然。俺、小さい頃から怒られるの平気だし」
 そう言った彼が富田の紅茶の受け皿にスコーンを一つ差し出してくる。
「おいしいよ。綺麗な方一つ食べてみて」
「いえ、俺は」
 人と食べものをシェアするのは好きではない。
「いいからいいから。スコーンを一つ食べたところで、何か悪いことが起こる訳でもないでしょ?」
 言われて仕方なく半分に割って口にすれば、まだ温かいスコーンのしっとりした感触が広がる。スコーンなんて食べようと思わなければ一生食べなくても困らないが、割とおいしいものなのだなと、一つ知った気分になる。
「おいしい」
「でしょ? なんか富田さんて食わず嫌いが多そうだなって」
 その言い方は失礼で、せっかくスコーンで解れた気持ちがまた壁を作ってしまった。
「ああ、ごめん。俺あまり口がよくなくて」
 表情から富田の気持ちを察したらしい彼に詫びられて、いちいち怒るのも馬鹿らしくなる。
「団信のクレームだけでなく、あなたが銀行にいられなかった理由は分かりました」
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