駆け引きトライアングル
戸倉は左肘の関節を人工関節に置き換える手術をしたという。筋肉や腱の手術を想像していたから、思ったよりずっと大掛かりな手術に驚かされる。多分、病状も治療内容も、余計な心配をさせないように軽めに話してくれていたのだろう。
女性の入院だから遠慮した方がいいかとも思ったが、戸倉本人から「退屈だから話し相手に来てほしい」と連絡を貰って向かうことになった。昼食やリハビリの時間を避けて二時に向かえば、四人部屋の窓側のベッドで、眼鏡を掛けて本に向かっている。
「待ってたわよ、富田くん。本当に来てくれたのね」
半分開いた仕切りのカーテンに近づけば、声を掛けるより先に気づいた彼女が喜んで迎えてくれた。
「元気そうでよかった。術後の痛みはどうですか?」
「まだちょっと痛いし、偽物の関節が重いような気もするけど大丈夫よ。これからリハビリでもっとよくなるって、理学療法士さんが言っていたしね」
偽物の関節という表現が逆にその場の空気を和ませるようで、病院という空間に馴染めずにいた富田も、ふっと肩の力が抜ける。
「これ、お見舞いです」
「ありがとう。ここのタオル好きなのよね。あら、ゼリーもある」
片手で食べやすいようにパウチタイプのものを選んで、料金は全て大岡に出してもらった。そう白状すれば、戸倉がまたころころと笑う。
「勇人先生にもお礼を言っておいてね。退院したら盛大にお返ししないと。富田くんも欲しいものをなんでも考えておいてね。私、こう見えてお金持ちなんだから」
こう見えてと言うが、富田には戸倉が初めからいいところの奥様のように見えていた。職場では黒か紺の地味な格好でいる彼女だが、そのどれもが上質なものだし、話し方や些細な仕草から、育ちのいい人間だと伝わってくる。
詳細は聞いていないが、戸倉は本当に資産家のお嬢様だったらしい。旦那さんが婿入りで結婚したが、結婚生活は上手くいかず長く別居状態。五十を過ぎていい加減けじめをつけたいと離婚を申し出たが、旦那がごねて、拗れに拗れた離婚話を手助けしたのが大岡なのだ。無事離婚が成立したあと、当時一人で事務所をやっていた大岡が戸倉に声を掛けて、事務員として働いてもらうことになった。そんないきさつは富田とほぼ同じ。戸倉は資産家でも働くことが好きなのだ。
「富田くんって普段から欲しものを言わないイメージよね。何か欲しいものってないの?」
戸倉の声に我に返る。欲しいもの。同性の、それも手が届きそうにないほどいい男が欲しい。自分のものにして、自分のことだけを見ていてほしい。そんな本音を言えば流石の戸倉も引くだろうから、今思いつく二番目に欲しいものを答えておく。
「白い縫い糸が欲しいです」
この間、彼が派手に破いた部屋着を縫ったからなくなりそうなのだ。
「もう、そんなの百円ショップで二個セットで買えるでしょう?」
苦笑しながらも、富田に何か言えない事情があるのだと察してくれたらしい彼女が、聡く話を変えてくれる。
「そうそう。大事なことを忘れていたわ。煌はどう? 真面目に働いている?」
それもまた厄介な質問だった。が、入院中の伯母に甥の愚痴を言うような真似はしない。
「いい人ですよ。数字に強いしパソコンにも詳しいし」
大岡が言っていたことをそのまま言ってみるが、決して嘘ではなかった。その点は富田も助かっているのだ。
「富田くんは優しいから、何かあっても我慢しそうで心配だわ。困ったときはいつでも連絡をちょうだいね。伯母の権限でクビにしてやるから」
彼女の言葉に笑って、また少し元気になった。年下バイトに振り回される自分というものに多少自信をなくしていたが、伯母に叱られる煌の図を想像したら、悩んでいたことがたいしたことではないように思えてきたのだ。
「でも本当にもったいなかったですよね。M銀行って日本の最大手じゃないですか」
「あの子は昔から価値観が普通じゃなかったからね。退職のきっかけになった出来事だって、接客業ならスルーしないといけないような些細なことなのよ。でも妹の話も私の話も聞きやしなくて」
「退職のきっかけがあるんですか?」
それは興味があって、つい聞いてしまった。あの飄々とした男がどんな理由で辞めたのだろう。だが声を潜めて話す戸倉に顔を寄せたところで、後ろから近づいてくる人の気配に気がつく。
「嬉しいな。俺の噂?」
「……!?」
はっとして振り向けば、そこに今まさに話のネタにしていた男が立っていた。
「戸倉くん」
「休日まで噂されるなんて、思っていたよりずっと愛されてるな、俺」
相変わらず彼の言葉は自意識過剰だ。昨日は一旦仲直りしたが、やはり自分はこの男が苦手だと再確認してしまう。
「どうしたの? 明日広子と一緒に来るって言っていなかった?」
広子というのが戸倉の妹で、煌の母親なのだろう。
「昨日のラインで富田さんが来るかもってちらっと出てきたから、今日来れば会えるかなと思って」
女性の入院だから遠慮した方がいいかとも思ったが、戸倉本人から「退屈だから話し相手に来てほしい」と連絡を貰って向かうことになった。昼食やリハビリの時間を避けて二時に向かえば、四人部屋の窓側のベッドで、眼鏡を掛けて本に向かっている。
「待ってたわよ、富田くん。本当に来てくれたのね」
半分開いた仕切りのカーテンに近づけば、声を掛けるより先に気づいた彼女が喜んで迎えてくれた。
「元気そうでよかった。術後の痛みはどうですか?」
「まだちょっと痛いし、偽物の関節が重いような気もするけど大丈夫よ。これからリハビリでもっとよくなるって、理学療法士さんが言っていたしね」
偽物の関節という表現が逆にその場の空気を和ませるようで、病院という空間に馴染めずにいた富田も、ふっと肩の力が抜ける。
「これ、お見舞いです」
「ありがとう。ここのタオル好きなのよね。あら、ゼリーもある」
片手で食べやすいようにパウチタイプのものを選んで、料金は全て大岡に出してもらった。そう白状すれば、戸倉がまたころころと笑う。
「勇人先生にもお礼を言っておいてね。退院したら盛大にお返ししないと。富田くんも欲しいものをなんでも考えておいてね。私、こう見えてお金持ちなんだから」
こう見えてと言うが、富田には戸倉が初めからいいところの奥様のように見えていた。職場では黒か紺の地味な格好でいる彼女だが、そのどれもが上質なものだし、話し方や些細な仕草から、育ちのいい人間だと伝わってくる。
詳細は聞いていないが、戸倉は本当に資産家のお嬢様だったらしい。旦那さんが婿入りで結婚したが、結婚生活は上手くいかず長く別居状態。五十を過ぎていい加減けじめをつけたいと離婚を申し出たが、旦那がごねて、拗れに拗れた離婚話を手助けしたのが大岡なのだ。無事離婚が成立したあと、当時一人で事務所をやっていた大岡が戸倉に声を掛けて、事務員として働いてもらうことになった。そんないきさつは富田とほぼ同じ。戸倉は資産家でも働くことが好きなのだ。
「富田くんって普段から欲しものを言わないイメージよね。何か欲しいものってないの?」
戸倉の声に我に返る。欲しいもの。同性の、それも手が届きそうにないほどいい男が欲しい。自分のものにして、自分のことだけを見ていてほしい。そんな本音を言えば流石の戸倉も引くだろうから、今思いつく二番目に欲しいものを答えておく。
「白い縫い糸が欲しいです」
この間、彼が派手に破いた部屋着を縫ったからなくなりそうなのだ。
「もう、そんなの百円ショップで二個セットで買えるでしょう?」
苦笑しながらも、富田に何か言えない事情があるのだと察してくれたらしい彼女が、聡く話を変えてくれる。
「そうそう。大事なことを忘れていたわ。煌はどう? 真面目に働いている?」
それもまた厄介な質問だった。が、入院中の伯母に甥の愚痴を言うような真似はしない。
「いい人ですよ。数字に強いしパソコンにも詳しいし」
大岡が言っていたことをそのまま言ってみるが、決して嘘ではなかった。その点は富田も助かっているのだ。
「富田くんは優しいから、何かあっても我慢しそうで心配だわ。困ったときはいつでも連絡をちょうだいね。伯母の権限でクビにしてやるから」
彼女の言葉に笑って、また少し元気になった。年下バイトに振り回される自分というものに多少自信をなくしていたが、伯母に叱られる煌の図を想像したら、悩んでいたことがたいしたことではないように思えてきたのだ。
「でも本当にもったいなかったですよね。M銀行って日本の最大手じゃないですか」
「あの子は昔から価値観が普通じゃなかったからね。退職のきっかけになった出来事だって、接客業ならスルーしないといけないような些細なことなのよ。でも妹の話も私の話も聞きやしなくて」
「退職のきっかけがあるんですか?」
それは興味があって、つい聞いてしまった。あの飄々とした男がどんな理由で辞めたのだろう。だが声を潜めて話す戸倉に顔を寄せたところで、後ろから近づいてくる人の気配に気がつく。
「嬉しいな。俺の噂?」
「……!?」
はっとして振り向けば、そこに今まさに話のネタにしていた男が立っていた。
「戸倉くん」
「休日まで噂されるなんて、思っていたよりずっと愛されてるな、俺」
相変わらず彼の言葉は自意識過剰だ。昨日は一旦仲直りしたが、やはり自分はこの男が苦手だと再確認してしまう。
「どうしたの? 明日広子と一緒に来るって言っていなかった?」
広子というのが戸倉の妹で、煌の母親なのだろう。
「昨日のラインで富田さんが来るかもってちらっと出てきたから、今日来れば会えるかなと思って」