駆け引きトライアングル

 そう言って富田の肩に手を置いて離れていく姿が格好よくて、トゲトゲした気持ちは引いていった。
「大岡さん、至急お願いします。なんか、結構怖い人」
「了解。ごめんね、驚かせて」
 面談室を出てきた煌が顔を顰めて助けを求めて、大岡が入れ替わりで入っていく。飄々とした煌の手にも余る女性。なんだか新たな厄介ごとがやってきそうだ。
「凄いですよ。離婚関係らしいんですけど、慰謝料一億欲しいって騒いでいます」
「……一億は難しいだろうね」
 強烈な依頼人女性のお陰で、煌との間に合った険悪ムードも消えてしまう。
 そんなこんなで新規案件がスタートした。依頼人は長谷実果子はせみかこ、四四歳。夫の長谷幹矢はせみきや氏との離婚を希望しているらしい。
「幹矢氏は十年程前に浮気疑惑があって、そのときは本人の謝罪で離婚は思い留まった、と」
 煌が帰ったあとの事務所で、デスクの片付けをしながら依頼人について語り合う。実際に動くのは大岡だが、ここでは依頼の性質によってこんな風に事務員と意見を言い合うことがある。ご近所トラブルなんかでは、人生経験豊富な戸倉の意見が役立つことも多いのだ。
「それがどうして十年も経ってまた離婚なんて言い出したんでしょうね。それも慰謝料が一億欲しいだなんて」
「実果子さんは会社経営者で、経営も順調。特にお金に困っている訳でもなさそうなんだよね。あ、さっきはありがとう」
「いいえ」
 実果子が輸入品のお茶をメインに扱う会社の社長だと資料で読んだから、いつもお客に出す日本茶ではなく、ディクサムという紅茶を出してみたのだ。富田が面談室に入ったときには大袈裟でなく大岡に掴み掛かりそうだった彼女が、紅茶の香りに気づいた瞬間態度を軟化させた。
「あらアッサムね。ディクサムかしら?」
「香りだけで分かるなんて流石ですね」
 富田の多くはないお茶の知識で、アッサムはミルクティーがいいと聞いたことがある気がするから、ミルクと一緒に出したのもよかったらしい。
「へぇ。淹れ方もまぁまぁじゃない。こんな小さな事務所でも洒落たことをするのね」
 そう言って気をよくした彼女と、その後は無事に話が進んだという。
「聡太のお茶がなかったら、契約までいっていなかったかも」
「実はその方がよかったと思っているんじゃないですか? 強烈な方でしたから」
「うん。ちょっとね」
 こんなとき、素直に本心を見せてくれる彼がありがたい。ここで働くようになってからまだ二年だが、一番の理解者でいたいという気持ちは、彼に初めて会ったときから変わらない。前にも後ろにも進めなくなって、自棄になりかけていた富田を大岡が救ってくれた。その日からずっと、富田の気持ちは彼に奪われている。
「とにかく彼女を宥めながら詳しく話を聞いていくことからだね。まずは僕を信頼してもらわないと」
「もう信頼はされていると思いますよ。あの人は信頼できないと思ったら、さっさと違う弁護士のところに行ってしまいそうでしたし」
「聡太にそう言ってもらえると救われる」
「光栄です」
 静かに返しながら心は躍る。臨時ボーナスみたいな台詞。そのボーナスで一週間は気分よく過ごしていられる。
「来週から忙しくなりそうだし、今日これからご飯でもどう? 何か予定ある?」
「今日はこれから雑貨屋に行く予定があって」
 反射的に事実を答えてから、ここは予定がないから行きますと言うのが正解だったなと後悔した。だがすぐに、彼と二人で食事に行けばボロを出してしまいそうだから、これでいいのだと思い直す。いつもは女性とどんな風に過ごすんですか? 本当は今日も女性と過ごしたかったんじゃないですか? そううっかり本音を零してしまえば、この居心地のいい職場生活を壊してしまう。それなら、少し物足りないくらいがちょうどいい。けれど心の奥の奥には、彼がもう一押ししてくれれば食事に行くのにという、期待めいた気持ちも残っているから、人間はどこまでも厄介な生き物だと思う。
「雑貨屋ってどこに行くの?」
「暮らし良品です。明日戸倉さんのお見舞いに行くからタオルを買おうと思って」
 戸倉は暮らし良品オリジナルブランドのオーガニックタオルが好きなのだ。生活用品に興味がない大岡には分からないだろうが、いい商品が沢山あるのだと説明してやれば、力説する富田の様子がおかしかったのか、大岡が目を細めて笑う。
「じゃあ、買いものに付き合うよ。お見舞いには一緒に行けないけど、お見舞いの品くらいは僕に買わせて」
「いいんですか? じゃあ、特別高いものを選びます」
「経営者の財力を見せてあげるよ」
 余計な謙遜をしない主義の彼の台詞に笑って、並んで事務所のビルを出ていく。梅雨の合間の夕方はまだ充分明るくて暑いけれど、今日は湿度が低くて心地いい。
「駅ビルまで歩いてみようか」
 いつもはタクシーを使う彼がそんな風に言うのは、富田と同じ気持ちを持ってくれたからなのかもしれない。そんな些細なことが嬉しい。
「歩くの久しぶりじゃないですか? 明日、筋肉痛になりません?」
「残念。年寄りの筋肉痛は翌々日から来るんだよ」
「なんの知識ですか」
 そう言い合って歩いていく歩道のモザイク模様が、海外の映画みたいに綺麗に見える。
「聡太の欲しいものも買ってあげるよ。家事までしてもらっているお礼に」
「言いましたね。じゃあ、戸倉さんの分以上に買ってやります」
「おっと、今日の聡太は攻撃的だね」
 その台詞も、昼間におかしな態度を見せてしまった富田への気遣いだ。ありがたい。自分は充分幸せだと、心の中で繰り返す。
 富田は女性ではないから恋人にはなれない。だが今のポジションも悪くないから、このままでいい。そんな思いを噛みしめていた。
7/33ページ
スキ