駆け引きトライアングル

 大岡総合法律事務所は最寄り駅から徒歩五分の雑居ビル内にあった。雑居ビルと聞けばエレベーターが壊れかけた古い建物を想像してしまいそうだが、ここは綺麗で、監視カメラや施錠システムも最新のものが導入されている。共用部分はビルオーナーが契約した清掃スタッフが掃除に来てくれるから、毎日快適。五階建てのビルの二階南側で、エレベーターの他に広い階段も使えるから、依頼人にとっても入りにくいということはないだろう。
 そんな居心地のいい事務所で、厄介な新参者は今のところ猫を被って過ごしていた。おかしな態度をとったのはあの日だけで、翌週から殊勝なバイトくんを演じている。多分大岡がいるからだろうが、どうかそのまま猫を被り続けてくれと、割と必死で祈っている。
「資料の入力終わりました」
 富田の物思いのうちに、彼が一仕事終えてしまう。
「ありがとう。早いですね」
「これくらいたいしたことないですけど、でも富田さんに褒められて嬉しいです」
 デスクに大岡がいる時間は言葉遣いも丁寧だ。
「二人、上手くいっているみたいだね。戸倉くんは数字にも強いし、パソコンもびっくりするくらい詳しい」
「ありがとうございます。退職してからずっと引き籠もってパソコン弄りばかりしていたんです」
 大岡が声を掛ければ、好青年の口調で返すのだから器用なことだ。
「聡太一人に苦労を掛けたらどうしようと思っていたんだけど、どうやら心配ないみたいだね」
「ええ。俺が来たからには富田さんに大変な思いをさせたりしません」
 おい、それはなんの宣言だと突っ込みたいところだが、大岡に深掘りされても困るので、二人のやりとりに無関心なフリでカタカタとキーボードを打っている。画面をタスク表に切り替えれば、三十分後の位置で『重要』の赤マークが存在を主張している。
「二時半から新規の依頼人と面談ですけど、問題ないですか?」
 煌の言葉は丸々無視して大岡に声を向けた。
「うん。急ぎの仕事は片付いているし、早く到着するようなら面談に入っちゃおうかなって」
「分かりました」
 大岡の切り替えの速さはこんなとき助かる。だが事前に貰っていた依頼主のデータに目を通して、お茶の準備に立とうとすれば、隣の男に腕を引いて止められる。
「来客対応なら俺がやるよ」
 訳知り顔で口角を上げられて、知らん顔にも疲れてしまった。
「あまり気軽に触らないでくれますか」
 富田にしては不機嫌に言って腕を外したのに、彼の表情は変わらない。
「素直じゃないな。知ってる? 銀行の窓口でもお茶を出すって」
「知っていますよ。一度定期預金の手続きに行ったら、長々と投資信託を勧められて、そのときに緑茶を出してもらいましたから」
 つい嫌な言い方になってしまって、その瞬間、奥の席の大岡が顔を上げるのが分かった。これまで大岡と戸倉と穏やかにやってきたから、富田が感情に任せて物を言うのが珍しかったのだろう。見られたくなかったと思うが今更だ。それくらい煌の態度はやりすぎだ。ここは職場だ、弁えてくれと、ボスに密かに恋する自分のことは棚に上げて思ってしまう。
「聡太」
「そういえばこのビルのオーナーさんから連絡が入っていました。来年からオーナーがお嬢さんに代替わりするかもしれないって。代替わりで多少賃料が上がっても、この事務所はこのまま移転なんてしませんよね?」
 大岡の気遣いをどうでもいい話で封じてしまう。
「……もちろん。ごめんね、ビルオーナーとのやりとりまで任せちゃって」
「いいえ」
 こんなとき、無理に話を続けようとしない大岡は人間ができていて、敵わないなと思う。分かっている。銀行員を悪者にするような言い方は富田が悪かった。だがちゃんと理由があったし、自覚があるから諭される必要もない。そんな意地のような気持ちで、奥にある給湯スペースに逃げてしまう。冷静さを取り戻すのには一人になるのが一番だ。
「待って。ごめん。そんな嫌がると思わなくて」
 同じように立ち上がってきた煌に、今はついてこないでくれと困り果てたところで、入り口のチャイムが鳴った。事務所の人間が出ていくまで待ちきれないというように、ピンポンが連打される。
「はい、今出ます」
 そこはやはりできる男で、頼まなくても煌が向かってくれた。
「やっと出てくれた。何? 個人の依頼人はたいした収入にならないから待たせてもいいと思っているの?」
 だが彼に向けられたのは強烈な台詞で、直前まであった気まずい空気も忘れて、煌が目顔で「厄介な依頼人がやってきました」と告げてくる。
「うちは依頼人によって対応を変えたりしません。すぐ先生が来ますから、こちらにどうぞ」
 それでも流石に接客慣れした彼が、上手く彼女を落ち着けて面談室に入っていく。
「凄い依頼人が来ちゃったね。メールのやりとりだけでは分からなかったけど」
 説明用のファイルを手に面談室に向かう前の大岡が、富田の傍で苦笑を見せる。単にぼやきたいからではなく富田のためだと分かるから、さっきの大人げない態度が情けなくなる。それでいて、こうして気遣われれば、彼の特別な人になった気がして嬉しくなる。
「僕一人で扱いきれない依頼人だったら、助けを求めるからよろしく」
「勇人さんに扱えない人を、事務員がなんとかできる訳がないでしょう?」
「そんなことないよ。僕は聡太を頼りにしているんだから」
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