駆け引きトライアングル

 初めは戸倉が金曜まで出勤して煌の手続きを済ませる予定だったが、リウマチの痛みが酷くなって休暇を前倒ししている。富田だって伊達に法律事務所で働いている訳ではないから、バイトの雇用手続きくらいなんてことはない。昨夜わざわざ謝罪の電話をくれた戸倉に、「問題ないですよ」と笑って引き受けたのだ。
「僕は八時には戻る予定だけど、二人は通常通り六時で上がっていいから。何かあったら連絡して」
「分かりました。勇人さんもお気をつけて」
「うん。ありがと。じゃあ、戸倉くん、また来週」
 そう言って大岡は事務所を出ていった。今週に入ってから突然舞い込んできた、企業合併の仕事だ。依頼の電話を取り次いだのは富田で、相手の話を聞いた大岡が「お引き受けします」と即答したのだ。「スケジュール、大丈夫ですか?」と聞けば、「僕が無理なスケジュールを組む訳がないでしょう?」と返された。弁護士が一人しかいないから急な呼び出しには彼が向かうしかないし、今週は依頼人のリスケがあったり、戸倉が休暇を早めたりとイレギュラーが続く週だった。それでも、全部受け入れて動じない彼が眩しい。もちろん強がりではなく、彼は全てのスケジュールが頭に入っていて、自分のキャパを知った上で言っている。少しでもそんな彼の役に立てればいいと思うのに、頭の片隅で、今週は女性と会う暇はないと喜んでしまっている自分は性格が悪いだろうか。
「ボスを下の名前で呼ぶんですね」
 煌の声に我に返った。戸倉のデスクを使ってもらうことになっているから、とりあえず隣のデスクに座ってもらう。
「大岡が呼びにくいから勇人の方でいいと言ってくれたんです。戸倉さんもそう呼んでいて」
「真面目だね。今入ってきたバイトに敬語じゃなくていいのに」
 おっと、と思った。突然口調を変えた彼に目を遣れば、悪戯っぽく微笑んで見つめ返される。
「初対面の仕事仲間ですから、これが普通だと思いますよ。えっと、筆記用具や電卓は戸倉さんのものを使っていいという話でしたけど……」
「やっぱり伯母さんの言っていた通りの人だ」
 軌道修正しようとしたのに、彼は富田まで引きずり込むような言い方をした。
「……戸倉さんが、俺をどんな風に言っていたんですか?」
 彼女に限って悪口はないだろうが、料理や裁縫が好きなおかしな男とでも言われていたらどうしよう。そんな不安から聞いてしまえば、相手が策略に掛かったのを喜ぶように、彼が笑みを深くする。眉が上がれば一層華やかな顔になるのが憎らしい。
「先生とはタイプの違ういい男だって。控えめだけど仕事はきっちりしていて、おまけに家事全般が得意」
「ありがたい評価です」
 世辞の部分もあるだろうが、とりあえず同僚から低評価を受けていないことに安堵した。戸倉とは料理のレシピや裁縫のテクニックの話で盛り上がる仲だ。駅まで並んで帰ることも多いから、煩わしいと思われていなくてよかったと胸を撫で下ろす。
「伯母さんの話を聞いていたときから予感していたけど、やっぱり俺の予感は当たったみたい」
「予感?」
 ぱっちりとした意思の強そうな目。高い鼻梁。全てが整った顔立ちの美丈夫に見つめられて、背中にぞくりとしたものが走った。キャスターの椅子ごと後ろに逃げてしまえば、彼がそんな富田にまた笑って、なんでもないことのように続ける。
「俺は大岡先生より聡太さんの方が好き。想像していたよりずっと好みだった」
「……何を言っているんですか?」
 意味不明だった。とりあえず初対面の職場の先輩に言うことではない。
「おふざけが過ぎると戸倉さんに言いつけますよ」
「いいんじゃない? 伯母さんは柔軟な思考の持ち主だから、聡太さんとくっついたら喜んでくれる」
 富田の攻撃力はゼロで、逆に彼が椅子ごと身体を近づけてくる。後ろの書棚に片手をつく形で身体を挟まれて、ありえない窮地に思考がパニックを起こしそうになる。
「……勇人さんに言いつけます」
 ボスに告げ口なんて情けないと思うが、この異常な状況下では仕方がない。
「一日でクビになってもいいんですか?」
「俺は伯母さんの顔を立てるために来ただけだから、別に」
 何を言ってもノーダメージの彼が迫ってきて、富田の動きを封じた彼が訳知り顔で口角を上げる。
「その『勇人さん』が好きなんでしょう? さっき話しているのを見てすぐに分かった」
「……」
 流石に返す言葉に詰まってしまった。一体この男は富田をどうしたいのだ。考えるうちについ睨むように見つめてしまって、その瞬間、ぱっと彼の笑顔が軽いものに戻る。
「なんてね」
 くるりと椅子を回転させて、何事もなかったかのように自身のデスクに戻ってしまった。
「好きな相手を困らせて楽しむほど子どもじゃないから」
「それはよかった」
 精一杯皮肉に聞こえるように言ってみるが、彼には少しも効いていない。先輩に対してその態度はなんだと怒るのが正解だろうが、そんな気力も残っていない。
「二ヵ月後には大岡さんじゃなくて、俺に惚れているかもね」
 難なくパソコンの設定を終えてしまった彼に顔を向けられて、ああ、思った以上に厄介なものがやってきたと、そう思わずにはいられなかった。
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