駆け引きトライアングル
三人の穏やかな時間が続けばいい。それは決して贅沢な望みではない筈だった。だが神様は富田に厳しい。
切り出されたのは、午前の仕事を終えて昼休憩にしようかという頃だった。六月決算企業の申告書の修正をしていた大岡は物凄い集中力でパソコンに向かっていて、戸倉と二人で静かに事務作業を終えたところだ。事務員二人はお弁当持参で、ボスだけが外食かテイクアウトを調達に行くというのが定番なのだが、その日の彼は既にコンビニランチを持参していた。ランチミーティングと言ったら大袈裟だが、これは事務所内で話したいことがあるのだろうと察してしまう。
「実は肘のリウマチの手術をすることになってね」
大岡が弁当をレンジで温めに立ったタイミングで、戸倉が富田の顔を見て言った。なるほど、大岡との話は既に済んでいて、この時間は富田への報告という訳だ。
「手術は難しいものではないんだけど、リハビリなんかで一ヵ月くらい入院することになりそうでね」
「一ヵ月って、大変じゃないですか。あ、それなら荷物運びとか、必要なものの買い出しは俺が引き受けます」
戸倉は一人暮らしだから、入院の世話をする人がいなくて大変だろう。思ったことをそのまま言葉にすれば、彼女にふふと笑われてしまう。
「やっぱり富田くんはいい子ね。いきなり俺の仕事が増えるじゃないですかって、叱られるかと思っていたのに」
「俺はそんなこと言いません」
「冗談よ。富田くんの人柄はよく知っているから」
鷹揚に返されて、冗談にストレートに反応してしまった自分が恥ずかしくなる。聞けば妹夫婦が車を出してくれるから、荷物運びや移動には困らないらしい。
「で、戸倉さんは申し訳ないから退職したいって言うんだけど、この僕が大事な従業員をたった数ヵ月の療養で見離したりする訳がないからね」
大岡がいつもの調子で話を進めてくれるから、こちらも肩の力が抜けた。
「ですよね。俺も戸倉さんが戻ってくるまでしっかり仕事を引き受けます」
「それなんだけどね」
戸倉が更に眉を下げる。なんだか、小さな子どもの悪戯を眺めているようだと思って見ていれば、そこに意外な台詞が続く。
「私が戻るまで甥をアルバイトで使ってもらおうと思って」
「戸倉さんの甥?」
「そう。妹の子どもで二七になるの」
富田より一つ下だが、戸倉に甥がいたなんて知らなかった。
「この三月に勤めていた銀行を辞めてしまってね。しばらくぼんやりしたいなんて言っているんだけど、昔からちょっと変わったところのある子だから、そのまま働かなくなってしまいそうで怖いのよ」
話の流れで聞けば、彼がいたのはメガバンクだという。つい、もったいないと零してしまう。
「ほんと、もったいないでしょう? その上、親にも相談もなしで辞めたらしくてね。まぁそんな訳で、私はリハビリ期間も含めて遅くても二ヵ月で戻ってくるつもりだけど、その間甥の世話をお願いできるかしら?」
「そんな、世話なんて」
メガバンクに入行できるならかなり優秀な男だろう。世話をするなどおこがましい。大岡に目を遣れば、既に彼との話はついているようで、目顔であとは富田の気持ち次第だと返される。
「勇人さんがいいなら、俺に反対する理由はありません」
「そう。よかった。じゃあ、入院は来週からになるから、今週中にきちんと挨拶に来させるわね。どうせ暇だから、今週はもう無給で働かせてしまっていいわよ」
「弁護士事務所でそれはブラックジョークだね」
新しい人間が来ることに特に頓着する様子もなく、大岡が軽やかに返す。富田にとってもたった二ヵ月のバイトくらいたいしたことではない。戸倉の甥だから非常識な人間ではないだろうし、別に人見知りでもない。なのにこの心がザワザワするような予感はなんだろう。穏やかに昼食に戻る二人に合わせて笑いながら、富田だけが胸に厄介なものを抱えたような落ち着かなさを感じてしまう。
その予感が少なくても半分は正解だったと、顔合わせの金曜には知る羽目になった。
「初めまして。戸倉煌 といいます」
そう言って事務所にやってきたのは、身長一七八センチの大岡より更に長身の華やかな顔立ちの男だった。はっきりとした二重に彫りの深い顔立ちはモデルのようだが、なんというか、自分の見た目のよさに執着しない飄々とした印象がある。退職してから伸ばしているのか、少し癖のあるブラウンの髪を後ろで一つに縛っている。普通の就活ならアウトのような気もするが、ここでは短期のバイトだし、大岡がよければいいのだろう。髪型は法律事務員に相応しいとは言えないが、着ているジャケットが上質なものだから、それほど砕けた感じはしない。
「大岡勇人です。戸倉さんから話は聞いています。しばらくはこの富田に雑務の指導を受けてください」
「富田聡太です。よろしくお願いします」
大岡に手のひらを向けられて、富田も名乗って頭を下げる。
「歓迎会でもしたいところなんだけど、生憎急ぎの外出の予定が入ってしまったんだ。聡太、悪いけど雇用契約の書類を頼めるかな?」
「もちろん」
切り出されたのは、午前の仕事を終えて昼休憩にしようかという頃だった。六月決算企業の申告書の修正をしていた大岡は物凄い集中力でパソコンに向かっていて、戸倉と二人で静かに事務作業を終えたところだ。事務員二人はお弁当持参で、ボスだけが外食かテイクアウトを調達に行くというのが定番なのだが、その日の彼は既にコンビニランチを持参していた。ランチミーティングと言ったら大袈裟だが、これは事務所内で話したいことがあるのだろうと察してしまう。
「実は肘のリウマチの手術をすることになってね」
大岡が弁当をレンジで温めに立ったタイミングで、戸倉が富田の顔を見て言った。なるほど、大岡との話は既に済んでいて、この時間は富田への報告という訳だ。
「手術は難しいものではないんだけど、リハビリなんかで一ヵ月くらい入院することになりそうでね」
「一ヵ月って、大変じゃないですか。あ、それなら荷物運びとか、必要なものの買い出しは俺が引き受けます」
戸倉は一人暮らしだから、入院の世話をする人がいなくて大変だろう。思ったことをそのまま言葉にすれば、彼女にふふと笑われてしまう。
「やっぱり富田くんはいい子ね。いきなり俺の仕事が増えるじゃないですかって、叱られるかと思っていたのに」
「俺はそんなこと言いません」
「冗談よ。富田くんの人柄はよく知っているから」
鷹揚に返されて、冗談にストレートに反応してしまった自分が恥ずかしくなる。聞けば妹夫婦が車を出してくれるから、荷物運びや移動には困らないらしい。
「で、戸倉さんは申し訳ないから退職したいって言うんだけど、この僕が大事な従業員をたった数ヵ月の療養で見離したりする訳がないからね」
大岡がいつもの調子で話を進めてくれるから、こちらも肩の力が抜けた。
「ですよね。俺も戸倉さんが戻ってくるまでしっかり仕事を引き受けます」
「それなんだけどね」
戸倉が更に眉を下げる。なんだか、小さな子どもの悪戯を眺めているようだと思って見ていれば、そこに意外な台詞が続く。
「私が戻るまで甥をアルバイトで使ってもらおうと思って」
「戸倉さんの甥?」
「そう。妹の子どもで二七になるの」
富田より一つ下だが、戸倉に甥がいたなんて知らなかった。
「この三月に勤めていた銀行を辞めてしまってね。しばらくぼんやりしたいなんて言っているんだけど、昔からちょっと変わったところのある子だから、そのまま働かなくなってしまいそうで怖いのよ」
話の流れで聞けば、彼がいたのはメガバンクだという。つい、もったいないと零してしまう。
「ほんと、もったいないでしょう? その上、親にも相談もなしで辞めたらしくてね。まぁそんな訳で、私はリハビリ期間も含めて遅くても二ヵ月で戻ってくるつもりだけど、その間甥の世話をお願いできるかしら?」
「そんな、世話なんて」
メガバンクに入行できるならかなり優秀な男だろう。世話をするなどおこがましい。大岡に目を遣れば、既に彼との話はついているようで、目顔であとは富田の気持ち次第だと返される。
「勇人さんがいいなら、俺に反対する理由はありません」
「そう。よかった。じゃあ、入院は来週からになるから、今週中にきちんと挨拶に来させるわね。どうせ暇だから、今週はもう無給で働かせてしまっていいわよ」
「弁護士事務所でそれはブラックジョークだね」
新しい人間が来ることに特に頓着する様子もなく、大岡が軽やかに返す。富田にとってもたった二ヵ月のバイトくらいたいしたことではない。戸倉の甥だから非常識な人間ではないだろうし、別に人見知りでもない。なのにこの心がザワザワするような予感はなんだろう。穏やかに昼食に戻る二人に合わせて笑いながら、富田だけが胸に厄介なものを抱えたような落ち着かなさを感じてしまう。
その予感が少なくても半分は正解だったと、顔合わせの金曜には知る羽目になった。
「初めまして。
そう言って事務所にやってきたのは、身長一七八センチの大岡より更に長身の華やかな顔立ちの男だった。はっきりとした二重に彫りの深い顔立ちはモデルのようだが、なんというか、自分の見た目のよさに執着しない飄々とした印象がある。退職してから伸ばしているのか、少し癖のあるブラウンの髪を後ろで一つに縛っている。普通の就活ならアウトのような気もするが、ここでは短期のバイトだし、大岡がよければいいのだろう。髪型は法律事務員に相応しいとは言えないが、着ているジャケットが上質なものだから、それほど砕けた感じはしない。
「大岡勇人です。戸倉さんから話は聞いています。しばらくはこの富田に雑務の指導を受けてください」
「富田聡太です。よろしくお願いします」
大岡に手のひらを向けられて、富田も名乗って頭を下げる。
「歓迎会でもしたいところなんだけど、生憎急ぎの外出の予定が入ってしまったんだ。聡太、悪いけど雇用契約の書類を頼めるかな?」
「もちろん」