駆け引きトライアングル
マンション付近にいた人間は「誤報だったらしい」という言葉を信じてくれた。もう夜も遅いしそこまで興味もないというのが本音だろう。問題はネットの方だった。どこから洩れるのか、『長谷実果子 夫婦喧嘩で殺傷沙汰か』とか、『酔って刃物を振り回したらしい』という情報がいくつか出回ってしまう。明日になって週刊誌のネット版に取り上げられでもしたら大変だから、富田も大岡の部屋に移ってネットの書き込み対策に回っている。ネットの掲示板やSNSの拡散を抑えるためにいくつか弁護士の秘策があるのだが、それを使っても二時間、三時間と時間は過ぎてしまう。ウィルスのように拡散していく情報と格闘するうちに、大岡が戦闘モードに入ってしまった。そうなればもう富田が傍にいるのも忘れた様子で、物凄い速さでキーボードを打ち続ける。
寝室の予備のパソコンで微力ながら協力しているうちに、いつのまにか眠ってしまっていたらしい。
「……ん。勇人さん?」
キーボードを打つ音が聞こえなくて見回せば、彼がベッドに倒れていた。ああ、これは戦闘モード後の睡眠だ。ということは、無事仕事は片付いたのだ。そう思って毛布を掛け直そうと身を寄せる。
「聡太」
そこで腕を引かれて身体が彼の上に倒れた。
「勇人さん?」
「ごめん。またカウントがゼロに戻ってしまったけど、もう、また一年なんて我慢できなくなった」
よく分からないことを言ったかと思うと、有無を言わさず下から唇を奪われてしまう。
「何をするんですか! 恋人がいるのに!」
惚けていたのは一瞬で、すぐに彼の胸を押して離れた。
「恋人?」
だが彼は悪びれもせず、怪訝な顔で身体を起こして富田を見つめる。
「恋人って誰?」
「松島さんという女性がいるでしょう? 自分の仕事場を見せるために事務所の鍵まで渡していた」
もう知っているのだから隠しても無駄だ。そう追及するつもりで言ったのに、彼の表情は変わらなかった。そのすぐあとで、はっと何かに気づいたように笑い出してしまう。
「どうして笑うんですか?」
「ごめん。聡太はまだ彼女に会ったことがなかったなって思って」
「ええ。この間初めて会いましたよ。凄く綺麗で、流石は勇人さんが選んだ人だなって」
そうじゃなくてね、と彼が姿勢を正して富田を見据える。
「彼女はあのビルのオーナーさんのお嬢さんだよ。代替わりして、そのうち彼女がオーナーになる。テナント企業の室内の使用状況を見たいって言われていたんだけど、都合が合わないから勝手に入ってもらうことにしたんだ。鍵を持っていたのは次期オーナーだから」
そういえばそんなことを言っていた。今のオーナーとは話して、代替わりの話も聞いていたが、実際彼女の姿を見るのは初めてだったのだ。
「でも、俺が予約したレストランに勇人さんと一緒に行ったって」
「うん。実は毎回彼女に付き合ってもらっていた」
「それは、彼女が本命で、ずっと二人で会っていたということですか?」
だとしたら酷い裏切りだ。だが彼はまたふっと笑って否定してくる。
「聡太がせっかく予約してくれたレストランをキャンセルするのは申し訳ないからね。彼女に事情を話して付き合ってもらっていたって訳」
「どうしてキャンセルする必要があるんですか?」
一体どういうことか分からない富田に、大岡が表情を正して頭を下げる。
「それは謝らないといけないね。本当はレストランもホテルも予約なんていらなかった」
「いらないのに、どうしてあんなに何度も頼んだんですか?」
聞けば一瞬だけ目を伏せた彼が、覚悟を決めたように富田をまっすぐ見据える。
「聡太にヤキモチを焼いてもらうため。いや、違うな。今夜もいい人に巡り合えなかったと言って、聡太を呼び出すため」
「そんな」
なんだそれはと思った。彼の特殊業務のせいで、どれだけやりきれないものを抱えてきたと思っているのだ。
「前も言ったけど、僕には仕事に集中しすぎて自分を制御できない時間がある。そのあとも眠ってしまうから、ずっとコンプレックスだった。なんとか一年自分を制御できたら聡太に告白しようと思って、聡太が言う『戦闘モード』の発作が起きるたびに、またダメだったと思って落ち込んでいた」
「勇人さん」
彼の気持ちを聞いて、小さな怒りも消えてしまった。落ち込む必要なんてない。もっと早く伝えてくれればよかったのにと、そんな気持ちが溢れて、彼の首に抱きついてしまう。
「嬉しいけど、聡太。今はまだ戦闘モードの余韻があるから、制御ができないかも」
「制御なんてしなくていい。勇人さんの好きにしてください」
思わず恥ずかしいことを言って、気づいて離れようとしたところを、背中から腕を回して引き止められる。
「正直、戸倉くんが現れてから悠長なことは言っていられないと思うようになった」
寝室の予備のパソコンで微力ながら協力しているうちに、いつのまにか眠ってしまっていたらしい。
「……ん。勇人さん?」
キーボードを打つ音が聞こえなくて見回せば、彼がベッドに倒れていた。ああ、これは戦闘モード後の睡眠だ。ということは、無事仕事は片付いたのだ。そう思って毛布を掛け直そうと身を寄せる。
「聡太」
そこで腕を引かれて身体が彼の上に倒れた。
「勇人さん?」
「ごめん。またカウントがゼロに戻ってしまったけど、もう、また一年なんて我慢できなくなった」
よく分からないことを言ったかと思うと、有無を言わさず下から唇を奪われてしまう。
「何をするんですか! 恋人がいるのに!」
惚けていたのは一瞬で、すぐに彼の胸を押して離れた。
「恋人?」
だが彼は悪びれもせず、怪訝な顔で身体を起こして富田を見つめる。
「恋人って誰?」
「松島さんという女性がいるでしょう? 自分の仕事場を見せるために事務所の鍵まで渡していた」
もう知っているのだから隠しても無駄だ。そう追及するつもりで言ったのに、彼の表情は変わらなかった。そのすぐあとで、はっと何かに気づいたように笑い出してしまう。
「どうして笑うんですか?」
「ごめん。聡太はまだ彼女に会ったことがなかったなって思って」
「ええ。この間初めて会いましたよ。凄く綺麗で、流石は勇人さんが選んだ人だなって」
そうじゃなくてね、と彼が姿勢を正して富田を見据える。
「彼女はあのビルのオーナーさんのお嬢さんだよ。代替わりして、そのうち彼女がオーナーになる。テナント企業の室内の使用状況を見たいって言われていたんだけど、都合が合わないから勝手に入ってもらうことにしたんだ。鍵を持っていたのは次期オーナーだから」
そういえばそんなことを言っていた。今のオーナーとは話して、代替わりの話も聞いていたが、実際彼女の姿を見るのは初めてだったのだ。
「でも、俺が予約したレストランに勇人さんと一緒に行ったって」
「うん。実は毎回彼女に付き合ってもらっていた」
「それは、彼女が本命で、ずっと二人で会っていたということですか?」
だとしたら酷い裏切りだ。だが彼はまたふっと笑って否定してくる。
「聡太がせっかく予約してくれたレストランをキャンセルするのは申し訳ないからね。彼女に事情を話して付き合ってもらっていたって訳」
「どうしてキャンセルする必要があるんですか?」
一体どういうことか分からない富田に、大岡が表情を正して頭を下げる。
「それは謝らないといけないね。本当はレストランもホテルも予約なんていらなかった」
「いらないのに、どうしてあんなに何度も頼んだんですか?」
聞けば一瞬だけ目を伏せた彼が、覚悟を決めたように富田をまっすぐ見据える。
「聡太にヤキモチを焼いてもらうため。いや、違うな。今夜もいい人に巡り合えなかったと言って、聡太を呼び出すため」
「そんな」
なんだそれはと思った。彼の特殊業務のせいで、どれだけやりきれないものを抱えてきたと思っているのだ。
「前も言ったけど、僕には仕事に集中しすぎて自分を制御できない時間がある。そのあとも眠ってしまうから、ずっとコンプレックスだった。なんとか一年自分を制御できたら聡太に告白しようと思って、聡太が言う『戦闘モード』の発作が起きるたびに、またダメだったと思って落ち込んでいた」
「勇人さん」
彼の気持ちを聞いて、小さな怒りも消えてしまった。落ち込む必要なんてない。もっと早く伝えてくれればよかったのにと、そんな気持ちが溢れて、彼の首に抱きついてしまう。
「嬉しいけど、聡太。今はまだ戦闘モードの余韻があるから、制御ができないかも」
「制御なんてしなくていい。勇人さんの好きにしてください」
思わず恥ずかしいことを言って、気づいて離れようとしたところを、背中から腕を回して引き止められる。
「正直、戸倉くんが現れてから悠長なことは言っていられないと思うようになった」