駆け引きトライアングル

 やれやれと思いながら座椅子に腰を下ろして、鞄からソーイングセットを取り出した。仕事用の鞄でやってきたが、富田の鞄にはいつも常備されている。他にウェットシートと染み抜き液と救急セット。男のくせにそんなものを持ち歩いている富田を、彼は決して笑ったりしない。
「おお、凄いね。プロみたい」
「ただの並縫いですよ。勇人さんも学校で習ったことくらいあるでしょう?」
 部屋着だから、ただザクザクと縫っているだけだ。それでも褒められれば悪い気はしない。悪い気はしないが、悟られる訳にはいかないからポーカーフェイスだ。弁護士にはポーカーフェイスが必要と聞くが、ポーカーフェイス勝負なら勝ってしまいそうだ。ポーカーフェイス勝負。なんだその勝負はと、おかしなことを思ううちに縫いものは終わってしまう。
「はい、終わり。他にしてほしいことはありますか? どうせ冷蔵庫も空でしょうから、休日の食料でも調達してきましょうか?」
「ううん、いらない」
「では俺は帰らせてもらいますね」
 さっさと立ち上がってしまえば、心做しか寂しそうな声が引き止める。
「泊まっていけばいいのに」
 一瞬ドキリとするが、これは弁護士の小芝居だ。騙されてはいけないと気持ちを落ち着かせる。彼はついさっきまで女性と食事をしていた。上手くいけばその女性と一夜を過ごす予定だった。その彼が富田をそういう意味で誘っている訳でないことくらい分かっている。大方、明日も書類仕事があって、その間の家事兼雑談係が欲しいだけだろう。彼は富田と違って、人と話しながら仕事ができてしまうタイプなのだ。
「俺にも予定があるので」
 本当はそんなものはない。
「残念だな。じゃあ、待って。タクシー代を」
「いえ、結構です。電車で帰りますので」
 交通費だろうと食費だろうと彼が酔っていようと、給料以外の金銭を貰う訳にはいかなかった。ここから少し歩けば駅があって、富田の部屋まで二駅五分だ。自分が弁護士ではなく事務員だということは忘れないようにしている。タクシーなど贅沢だ。それに大岡に厄介な気持ちを抱えている身としては、全部バレてクビになったときのために、お金は大事に貯めておきたい。
「また月曜日に」
 そう言ってリビングを出ようとすれば、座椅子に座ったままの彼が黙ってしまった。普段よく話す人間が黙れば不安になってしまうもので、つい振り向いてしまう。途端、策略の成功を喜ぶ彼に手招きされる。
「……分かりました。もう少しいます」
「嬉しいな。今夜も振られて寂しかったんだ」
 頼むからそう惑わすようなことを言わないでくれと思いながら、結局帰れない自分は重傷なのだろう。一人で動揺している状況に腹が立って、リモコンで部屋の主の許しも得ずにテレビを点ける。だが映し出されたのはお堅いニュース番組で、出勤前にこのチャンネルを観ていたのかと、また一つ彼に関する知識を増やしてしまう羽目になる。
「立っていないで座りなよ」
 言われて、フローリングに直置きされた座椅子で並んで座ることになった。殺風景な部屋で銀行員が横領したというニュースを観ている男二人の関係には、一体どんな名前をつけたらいいのだろう。気を張っているのも馬鹿らしくなって、聡太も彼に一つねだることにする。
「いつものをやってください」
 それで伝わる彼が小さく笑った。
「裁判ごっこ? 聡太も好きだね」
「だって本物の裁判なんて滅多に見られるものじゃないし」
 弁護士でも、ドラマのようにいつも裁判所で弁護をしている訳ではない。普段は離婚や家賃滞納のトラブルを、裁判にならないうちに抑えるのが仕事なのだ。富田が裁判所についていくこともないから、本物の裁判なんて滅多に見られない。だから呼び出しの手間賃として、弁護士モードの彼をねだる。普段の軽い感じもいいが、完全弁護士モードの彼が格好よく見えるからという、単なる富田の趣味だ。
「この横領事件の犯人の弁護士をやってください」
 テレビ画面を指せば、彼もまた画面に目を遣った。
「じゃあ、今夜のお礼に」
 数秒見ただけで事件の概要を掴んでしまった彼が、そのままふっと真顔になる。
「被告人は初犯であり、共犯者間でも従属的な立場で積極的に犯行を行った訳ではないと判断できます。全額被害弁償は済んでおり、また父親や兄、叔父が被告人の身元を預かることを申し出ており、監督者に不足はない。よって執行猶予付きの判決が相応しいことを主張します」
「おお、凄い」
 ぱちぱちと手を叩けば、いつもの調子に戻った彼も満足げな顔になる。多分、富田に分かりやすいような言葉を使ってくれたのだろうし、本来は使わない言い回しもあるのだろう。それでも、裁判所で闘う彼の姿が垣間見れたようで嬉しい。そして、やはりいい男だと再確認する。
「ほんと変わり者だね、聡太は。こんな小芝居よりタクシー代を貰った方がいいのに」
「変わり者は勇人さんの方ですよ。普通、部下に女性関係なんて知られたくない筈でしょう?」
「じゃあ、代わりもの同士だから上手くいくのかもね。経営者の僕が言うのもなんだけど、うちの事務所は他のどこより空気がいい。あ、戸倉さんは変わり者じゃないけど、人間関係のエキスパートだから」
 こんなとき、ちゃんと事務所の三人のことを言ってくれる彼が好きだと思う。
「では今度こそ、俺は帰ります。ちゃんと寝て、ちゃんと食べてくださいね」
「努力する」
「お休みなさい」
「うん」
 そんな言葉で別れる頃には、ここに来たときにあった僅かなもやもやも消えていた。建物を出て歩きながら、一番の味方でいられればいいと思う。女性と遊びたいならいくらでも協力する。プライベートを見せても構わないと思うほど信頼されているのだ。それで充分だと思うのは強がりではない。
 駅に向かえばまだ終電まで余裕がある時間で、大岡が気を遣ってくれたのだと分かった。無遠慮に引き止めるフリをしながら、駅まで走らなくていいように、彼は密かに時間を見てくれている。富田には一切そんな素振りを見せないところが憎らしい。憎らしくて、本来なら近づくこともできなかったようないい男。
 私鉄の電車に乗り込めば、窓に貼られた広告に目が行った。大手弁護士事務所のフリーダイヤルが載ったステッカー広告を、つい隅から隅まで眺めてしまう。弁護士が十人もいる大きな法律事務所。でも大岡総合法律事務所も負けていない。たった一人の弁護士が優秀だから。心ではいくらでも言える彼への信頼と讃辞に、自分で恥ずかしくなってやれやれと笑う。
 法律の律という字が好きだった。心を律する。他でもない。自分が大事な人の傍にいられるように。今の自分はちゃんと『律する』ができている。そう思えば、小さな引っ掛かりを忘れて、また来週から頑張ろうと思える。
 大岡と戸倉と自分。三人の穏やかな時間が長く続けばいい。望むのはそれだけだ。
 そこで自宅の駅に到着して、踏切前の細やかな商店街を帰っていくのだった。
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