駆け引きトライアングル
人はショックを受けると、それを忘れるために思いも寄らない行動を取ってしまうものらしい。
存在は知っていたが、これまで一度も降りたことのない駅の改札を抜けて、見慣れない歩道をまっすぐ進んだ。幸か不幸か、ここに彼の住所が書かれたものがあるのだ。彼の気持ちが本物で、運もタイミングも味方するなら、彼のものになるのも一つの選択ではないか。そう思えて、事務所に向かったときと同じようにまた早足で進んでいく。
彼が不在だといい。それなら、なんて馬鹿なことを考えたのだと反省して帰るだけだ。そう思ったのに、送付票に書いてあるマンションに着いて一階のインターフォンを鳴らせば、一度のコールで彼が出てしまった。
「はい」
一階の集合インターフォンは声だけ届く仕組みで、すぐに煌の少し眠たげな声が返ってくる。今ならなかったことにできる。何も言わずに帰ってしまえばいい。そう思うのに動けなかった。
「誰?」
煌の方も何かを察したように、さっさと切ることをしない。
「もしかして富田さん?」
そう言われて小さく出てしまった声で、彼には分かったらしかった。
「富田さんだよね? 来てくれるなんて嬉しい。そこ開けるから上がってきて」
そうだといっていないのに話を進められれば、認めてしまわざるを得なかった。上がってと言われてインターフォンを切られてしまったから、もう諦めて彼の部屋がある三階まで上がっていく。
「富田さん、こっち」
各部屋にモニター式のインターフォンが設置されているが、それを使うまでもなく、彼がドアを開けて待っていてくれた。大岡ほどではないが、富田よりは家賃の高そうな部屋。銀行員時代の預金はあるだろうが、バイトの給料だけでは生活が厳しくなりそうだ。だが適当なフリをして、彼はお金のことに関してきっちりしているのだろう。
「部屋に来てくれるなんて感激なんですけど。住所は伯母さんに聞いたの?」
躊躇いもなく室内に案内しながら言われて、辞書が入っている小包を差し出す。
「これ。戸倉さんが返したがっていたから」
「ああ、そう、これ。使いたいと思っていたんだよね」
さらりと返されて、やはり勉強や読書を身近にしている人間なのだと思い知る。奥の書棚にはびっしりと本が並んでいる。料理は退職してから戸倉に仕込まれたといっていたが、その他の家事は元から苦ではないのだろう。きちんと掃除された部屋にセンスのいい家具や家電が並んでいて、やはり育ちのよさを感じてしまう。
「ちゃんとお見舞いの約束は守らないと。戸倉さんだって待っているんだから」
突然押しかけておいて、そんなことを言う自分が情けなかった。
「本に夢中になっちゃうと面会時間を過ぎてしまうんだよね。伯母さんとはラインでやりとりできるし、まぁ、いいかって」
富田の失礼な態度にも、彼が気を悪くする様子はない。
「でも、持ってきてくれてありがと。お礼にご飯でも食べていってよ」
「いや、そんな」
「いいじゃん。ちょうどちょっと早い夕ご飯の時間だし。俺も何か作ろうと思っていたところだったから」
帰っておいた方がいい。今なら辞書を届けに来ただけと言い訳できる。意地のように湧いてくる思考を見透かすように、煌がにやりと口の端を上げる。
「どうせ何かあったんでしょ? 心配しなくても、ご飯のお礼に身体を差し出せなんて言わないから」
「そこまではっきり言いますか、普通」
彼の言い方に肩の力が抜けて、結局勧められるままリビングのソファーに落ち着くことになった。
「料理なら手伝いますけど」
「いい、いい。富田さんっていつも尽くしてそうだし、たまには尽くされる側も味わいなよ」
「……年下なのに生意気です」
「年下って、一個しか違わないじゃん」
どうでもいいやりとりがありがたかった。気にならない筈はないのに、彼は何があったのか聞かずに、対面キッチンで手際よく料理を進めるだけだ。
「料理はできるようになったけど、見ていられるのは得意じゃないから、テレビでも観ててよ」
らしくないことを言った彼が一度こちらにやってきて、映画を見繕って点けてからキッチンに戻っていく。至れり尽くせり。気遣いがありがたくて、ちゃんと画面に向き合えば、意外に夢中になってしまう。考えてみれば、ここ最近は考えることが多くて、自宅でテレビを点ける余裕もなかった。
「映画観ているとこ悪いけど、ご飯できたよ」
声を掛けられるまでアクション映画に見入っていて、我に返って恥ずかしくなった。だが意外というのか、彼にそんな富田を馬鹿にする様子はない。
「一旦止めてまた続きから観られるけど、食べながら観るならそっちに運ぼうか?」
子ども相手みたいに言われて、ふっと笑ってしまった。
「普段キッチンで食べているんでしょう? そっちに行きます」
「それならよかった。リビングでテレビを観ながらご飯って、実は母親に叱られるんだよね。未だにそのトラウマがあって」
「なんだか、いいところのお坊ちゃんって感じ」
「そんなことはないよ。服装も趣味も進路も全部自由だったし」
存在は知っていたが、これまで一度も降りたことのない駅の改札を抜けて、見慣れない歩道をまっすぐ進んだ。幸か不幸か、ここに彼の住所が書かれたものがあるのだ。彼の気持ちが本物で、運もタイミングも味方するなら、彼のものになるのも一つの選択ではないか。そう思えて、事務所に向かったときと同じようにまた早足で進んでいく。
彼が不在だといい。それなら、なんて馬鹿なことを考えたのだと反省して帰るだけだ。そう思ったのに、送付票に書いてあるマンションに着いて一階のインターフォンを鳴らせば、一度のコールで彼が出てしまった。
「はい」
一階の集合インターフォンは声だけ届く仕組みで、すぐに煌の少し眠たげな声が返ってくる。今ならなかったことにできる。何も言わずに帰ってしまえばいい。そう思うのに動けなかった。
「誰?」
煌の方も何かを察したように、さっさと切ることをしない。
「もしかして富田さん?」
そう言われて小さく出てしまった声で、彼には分かったらしかった。
「富田さんだよね? 来てくれるなんて嬉しい。そこ開けるから上がってきて」
そうだといっていないのに話を進められれば、認めてしまわざるを得なかった。上がってと言われてインターフォンを切られてしまったから、もう諦めて彼の部屋がある三階まで上がっていく。
「富田さん、こっち」
各部屋にモニター式のインターフォンが設置されているが、それを使うまでもなく、彼がドアを開けて待っていてくれた。大岡ほどではないが、富田よりは家賃の高そうな部屋。銀行員時代の預金はあるだろうが、バイトの給料だけでは生活が厳しくなりそうだ。だが適当なフリをして、彼はお金のことに関してきっちりしているのだろう。
「部屋に来てくれるなんて感激なんですけど。住所は伯母さんに聞いたの?」
躊躇いもなく室内に案内しながら言われて、辞書が入っている小包を差し出す。
「これ。戸倉さんが返したがっていたから」
「ああ、そう、これ。使いたいと思っていたんだよね」
さらりと返されて、やはり勉強や読書を身近にしている人間なのだと思い知る。奥の書棚にはびっしりと本が並んでいる。料理は退職してから戸倉に仕込まれたといっていたが、その他の家事は元から苦ではないのだろう。きちんと掃除された部屋にセンスのいい家具や家電が並んでいて、やはり育ちのよさを感じてしまう。
「ちゃんとお見舞いの約束は守らないと。戸倉さんだって待っているんだから」
突然押しかけておいて、そんなことを言う自分が情けなかった。
「本に夢中になっちゃうと面会時間を過ぎてしまうんだよね。伯母さんとはラインでやりとりできるし、まぁ、いいかって」
富田の失礼な態度にも、彼が気を悪くする様子はない。
「でも、持ってきてくれてありがと。お礼にご飯でも食べていってよ」
「いや、そんな」
「いいじゃん。ちょうどちょっと早い夕ご飯の時間だし。俺も何か作ろうと思っていたところだったから」
帰っておいた方がいい。今なら辞書を届けに来ただけと言い訳できる。意地のように湧いてくる思考を見透かすように、煌がにやりと口の端を上げる。
「どうせ何かあったんでしょ? 心配しなくても、ご飯のお礼に身体を差し出せなんて言わないから」
「そこまではっきり言いますか、普通」
彼の言い方に肩の力が抜けて、結局勧められるままリビングのソファーに落ち着くことになった。
「料理なら手伝いますけど」
「いい、いい。富田さんっていつも尽くしてそうだし、たまには尽くされる側も味わいなよ」
「……年下なのに生意気です」
「年下って、一個しか違わないじゃん」
どうでもいいやりとりがありがたかった。気にならない筈はないのに、彼は何があったのか聞かずに、対面キッチンで手際よく料理を進めるだけだ。
「料理はできるようになったけど、見ていられるのは得意じゃないから、テレビでも観ててよ」
らしくないことを言った彼が一度こちらにやってきて、映画を見繕って点けてからキッチンに戻っていく。至れり尽くせり。気遣いがありがたくて、ちゃんと画面に向き合えば、意外に夢中になってしまう。考えてみれば、ここ最近は考えることが多くて、自宅でテレビを点ける余裕もなかった。
「映画観ているとこ悪いけど、ご飯できたよ」
声を掛けられるまでアクション映画に見入っていて、我に返って恥ずかしくなった。だが意外というのか、彼にそんな富田を馬鹿にする様子はない。
「一旦止めてまた続きから観られるけど、食べながら観るならそっちに運ぼうか?」
子ども相手みたいに言われて、ふっと笑ってしまった。
「普段キッチンで食べているんでしょう? そっちに行きます」
「それならよかった。リビングでテレビを観ながらご飯って、実は母親に叱られるんだよね。未だにそのトラウマがあって」
「なんだか、いいところのお坊ちゃんって感じ」
「そんなことはないよ。服装も趣味も進路も全部自由だったし」