駆け引きトライアングル
立ち上がってお菓子の袋が置いてあるサイドテーブルに目を遣って、そこに記入済みの送付票が張られた小包が置いてあるのに気がつく。何気なく文字を読んでしまって、煌の部屋に送るものだと分かる。
「戸倉くんに送るものですか?」
「ああ、そうなの。本を読むためにドイツ語の辞書を借りていたんだけど、あの子気紛れにお見舞いの予定をすっぽかしたりするから、なかなか返せなくて。病室に置いておくのもなんだから宅配便で返してしまおうと思って」
ドイツ語辞典を使って読書なんて博識の彼女らしいと思った。だが水くさい。富田が事務所で煌に会うのだから、わざわざ宅配料金を掛けずに頼めばいのに。
「週明けでよければ渡しておきますよ」
「悪いわ。重いでしょう?」
「ただの辞書じゃないですか。これくらいたいしたことないですよ。汚れるといけないのでこのまま持っていきますね」
「ありがとう。煌に約束くらいちゃんと守りなさいって伝えておいて」
そんな伯母らしい言葉に笑って帰ることにする。
戸倉と話せてよかった。何はともあれ大岡の事務所で働いていくことに変わりはない。実果子の件には、これ以上感情移入しないように気をつければいい。鞄に入れるとずしりと重くなるから、煌の辞書を脇に抱えて歩いていく。大学でドイツ語を取っていたのだろう。軽いフリをしているが、今でも辞書を持っているということは、彼も戸倉とお同じように博識で勉強家なのかもしれない。そう煌のことを考えながら、辿り着いた駅の改札を入っていく。
「あ……」
そこではっとした。さっき病室で感じた引っ掛かりの正体に気づいてしまう。
戸倉は、煌は女性より男性が好きだと言った。それは大岡が、女性の恋人を見つけてやってほしいと頼まれたという話と矛盾する。戸倉が甥のことで嘘を吐くとは思えないから、嘘を言ったのは大岡だろう。何故嘘を吐く必要があった?
考えるうちに自宅に戻る乗り換え駅を通過してしまっていた。次で戻ればいいのだが、なんとなく、一度事務所に寄ろうかという気分になる。本人はいなくても、彼を感じることのできる空間でじっくり考えたい。それに週明けまたこの辞書を持って出勤するより、煌のデスクに置いてきてしまった方が楽だと思ったのだ。大岡が朝から現場に直行することがあるから、スペアキーは預かっている。
病院にいたときには文句なしに晴れていたのに、事務所の最寄り駅を出る頃には日が翳っていた。夜遅くには雨になるようなことを言っていた気もするが、もう事務所に寄らずに引き返すという選択肢はない。一体自分は何に駆り立てられているのか、何故早足になってしまうのか。敢えて答えを出さないまま慣れた雑居ビルに辿り着く。
煌の恋人になるのは嫌だと思ってくれたのではないか。
ビルの外側から二階の事務所を見上げたところで、漸く心の中で言葉になった。
もしかしたら、煌が現れたことで富田を意識するようになったのではないか。だとしたら嬉しい。もし彼が少しでも想ってくれるのなら、ずっと秘めていようと思った気持ちを伝えられる。富田が想うのの半分でも想ってくれるなら、ずっと好きでしたと白状することができる。それくらい気持ちは募って、隠すことに耐えられなくなりそうなのだ。
いや一人で盛り上がるのはよそう。一度、いつも平静を保って仕事をしているデスクに落ち着いて考えよう。テナントに土日も稼働する会社があるから、いつものようにエントランスは開いていた。開け放たれている外側のドアを潜って、その中の自動ドアを抜ける。エレベーターではなく広い中央階段を上がっていく間も、もしかしたらと期待が膨らんで、落ち着け落ち着けと自分を諫めながら慣れた二階の事務所に向かっていく。
「え……」
だがふわふわとした気分は一瞬で引いた。依頼人が入りやすいように、事務所内が一部見えるようになっているガラスの壁の向こうで、動く人影を感じたから。
「誰?」
大岡でも煌でもなかった。見間違いであってほしいと思いながら近づけば、今度ははっきりとブラウンの髪が見える。肩までの髪のスーツ姿の女性だ。もちろん戸倉ではなく、恐らく三十代の若さの彼女が、何故か事務所の書棚や照明を見て回っている。泥棒には見えないが、鍵もないのに侵入していることは確かだ。危険人物なら大岡に連絡しなければならない。いや、警備会社が先だろうか。流石に初めての経験に戸惑って、こちらの身を隠すことを忘れていた。
「あら」
室内の彼女が富田に気づいて、そう声にする様子を目にする。
「こんにちは。初めて会うわね。この事務所の、確か富田さんだったかしら」
「え……」
躊躇いもなく富田の前に出てきた彼女に言われて、すっと体温が下がるような感覚に襲われる。不審者ではない。寧ろ逆だから大岡が鍵を預けていたのではないか。自分を気にしてくれているのではないかと自惚れていた自分が恥ずかしくなる。大岡は好きな相手ができたと言っていた。それがこの女性で、富田の知らないところで既に関係は進んでいて、だからここに彼女がいるのではないか。一瞬でそんな結論に辿り着いてしまう。
「どうかした?」
「いえ」
上手く応えられない代わりに、無意識に観察してしまっていた。流石彼が選んだ女性だ。女性に興味のない富田にも魅力的だと分かる女性。派手なメイクなど必要のない華やかな顔立ち。美しいだけでなく賢そうな瞳。髪も肌も極上に綺麗で、着ているものも上質のものだとすぐに分かる。
「ああ、そっか。私がここにいて驚いたよね。松原麻子っていいます。本当は大岡さんがいる日に来る予定だったんだけど、私の都合が合わなくて」
ああ、とか、はいとしか応えられない富田に気を悪くすることもなく、彼女の話は続いた。事務所を見せる約束をしていたのだろうか。大岡の城なのだから、できたばかりの恋人に見せたくなる気持ちは分かる。だが休日に鍵を預けて無防備に事務所内に入れてしまうというのが彼らしくなくて、そのことに傷ついてしまう。富田にスペアキーを預けるとき、「誰にでも預ける訳じゃない。これは聡太を信用しているからだよ」と言ってくれた。それなのに彼女にはあっさり鍵を渡している。一人で事務所内を動き回らせて、書類の紛失でもあったらどうするのだ。そういうことに誰よりも気を遣わなければならない職業なのに、そんな当たり前の注意点すらどうでもよくなるほど、彼は目の前の彼女に夢中なのか。考えれば止まらなくなって、呼吸まで苦しくなる。
「そうだ。大岡さんと行ったレストランはあなたが予約してくれていたんでしょう?」
「……レストラン?」
「そう。いつもセンスのいいところを選んでくれるなって、ありがたく思っていたの。でも大岡さんも素直じゃないわよね。最近になって漸く……」
「すみません。急ぐので」
それ以上聞いていられなくて、遮るように頭を下げて彼女から離れてしまった。階段を駆け下りて、一刻も早くビルから離れたくて必死で走る。何年振りか分からないほど長く走って、駅に戻ったときには肩で息をしていた。
やはり間違いない。松原が大岡の想い人で、最近恋が成就した相手。一夜の相手のために用意したレストランに何故彼女が行っていたのかは謎だが、それも些細なことだ。大岡が以前富田が調べたレストランを気に入って、本命の彼女を連れていったのかもしれない。二人ならさぞ絵になるだろう。電車が一本到着したのか、自動改札機が三つしかない出口に人が押し寄せて、邪魔にならないように一度改札から離れてしまう。
「俺のことまで話さなくていいのに」
自動券売機の傍の壁に身体を寄せたところで、ぽつりと零れた。
恋が成就した相手に、事務所の事務員の話までしなくてもいいではないか。ボスのためにレストランやホテルを探すような事務員だ。仕事上の片腕になれるような存在ではない。大岡に限って人を馬鹿にするようなことはないだろうが、それでも、恋人と富田のことをネタにしていたかと思えば、自分が惨めで仕方なくなる。
「どうして自分に気があるなんて思ったんだろう」
もう誰の話が嘘か考えるのも面倒になって、券売機の音が響く壁の傍で立ち尽くしていた。鞄の他に抱えている辞書の包みがやけに重くて、何故こんなものを引き受けてしまったのだろうと後悔した。
「戸倉くんに送るものですか?」
「ああ、そうなの。本を読むためにドイツ語の辞書を借りていたんだけど、あの子気紛れにお見舞いの予定をすっぽかしたりするから、なかなか返せなくて。病室に置いておくのもなんだから宅配便で返してしまおうと思って」
ドイツ語辞典を使って読書なんて博識の彼女らしいと思った。だが水くさい。富田が事務所で煌に会うのだから、わざわざ宅配料金を掛けずに頼めばいのに。
「週明けでよければ渡しておきますよ」
「悪いわ。重いでしょう?」
「ただの辞書じゃないですか。これくらいたいしたことないですよ。汚れるといけないのでこのまま持っていきますね」
「ありがとう。煌に約束くらいちゃんと守りなさいって伝えておいて」
そんな伯母らしい言葉に笑って帰ることにする。
戸倉と話せてよかった。何はともあれ大岡の事務所で働いていくことに変わりはない。実果子の件には、これ以上感情移入しないように気をつければいい。鞄に入れるとずしりと重くなるから、煌の辞書を脇に抱えて歩いていく。大学でドイツ語を取っていたのだろう。軽いフリをしているが、今でも辞書を持っているということは、彼も戸倉とお同じように博識で勉強家なのかもしれない。そう煌のことを考えながら、辿り着いた駅の改札を入っていく。
「あ……」
そこではっとした。さっき病室で感じた引っ掛かりの正体に気づいてしまう。
戸倉は、煌は女性より男性が好きだと言った。それは大岡が、女性の恋人を見つけてやってほしいと頼まれたという話と矛盾する。戸倉が甥のことで嘘を吐くとは思えないから、嘘を言ったのは大岡だろう。何故嘘を吐く必要があった?
考えるうちに自宅に戻る乗り換え駅を通過してしまっていた。次で戻ればいいのだが、なんとなく、一度事務所に寄ろうかという気分になる。本人はいなくても、彼を感じることのできる空間でじっくり考えたい。それに週明けまたこの辞書を持って出勤するより、煌のデスクに置いてきてしまった方が楽だと思ったのだ。大岡が朝から現場に直行することがあるから、スペアキーは預かっている。
病院にいたときには文句なしに晴れていたのに、事務所の最寄り駅を出る頃には日が翳っていた。夜遅くには雨になるようなことを言っていた気もするが、もう事務所に寄らずに引き返すという選択肢はない。一体自分は何に駆り立てられているのか、何故早足になってしまうのか。敢えて答えを出さないまま慣れた雑居ビルに辿り着く。
煌の恋人になるのは嫌だと思ってくれたのではないか。
ビルの外側から二階の事務所を見上げたところで、漸く心の中で言葉になった。
もしかしたら、煌が現れたことで富田を意識するようになったのではないか。だとしたら嬉しい。もし彼が少しでも想ってくれるのなら、ずっと秘めていようと思った気持ちを伝えられる。富田が想うのの半分でも想ってくれるなら、ずっと好きでしたと白状することができる。それくらい気持ちは募って、隠すことに耐えられなくなりそうなのだ。
いや一人で盛り上がるのはよそう。一度、いつも平静を保って仕事をしているデスクに落ち着いて考えよう。テナントに土日も稼働する会社があるから、いつものようにエントランスは開いていた。開け放たれている外側のドアを潜って、その中の自動ドアを抜ける。エレベーターではなく広い中央階段を上がっていく間も、もしかしたらと期待が膨らんで、落ち着け落ち着けと自分を諫めながら慣れた二階の事務所に向かっていく。
「え……」
だがふわふわとした気分は一瞬で引いた。依頼人が入りやすいように、事務所内が一部見えるようになっているガラスの壁の向こうで、動く人影を感じたから。
「誰?」
大岡でも煌でもなかった。見間違いであってほしいと思いながら近づけば、今度ははっきりとブラウンの髪が見える。肩までの髪のスーツ姿の女性だ。もちろん戸倉ではなく、恐らく三十代の若さの彼女が、何故か事務所の書棚や照明を見て回っている。泥棒には見えないが、鍵もないのに侵入していることは確かだ。危険人物なら大岡に連絡しなければならない。いや、警備会社が先だろうか。流石に初めての経験に戸惑って、こちらの身を隠すことを忘れていた。
「あら」
室内の彼女が富田に気づいて、そう声にする様子を目にする。
「こんにちは。初めて会うわね。この事務所の、確か富田さんだったかしら」
「え……」
躊躇いもなく富田の前に出てきた彼女に言われて、すっと体温が下がるような感覚に襲われる。不審者ではない。寧ろ逆だから大岡が鍵を預けていたのではないか。自分を気にしてくれているのではないかと自惚れていた自分が恥ずかしくなる。大岡は好きな相手ができたと言っていた。それがこの女性で、富田の知らないところで既に関係は進んでいて、だからここに彼女がいるのではないか。一瞬でそんな結論に辿り着いてしまう。
「どうかした?」
「いえ」
上手く応えられない代わりに、無意識に観察してしまっていた。流石彼が選んだ女性だ。女性に興味のない富田にも魅力的だと分かる女性。派手なメイクなど必要のない華やかな顔立ち。美しいだけでなく賢そうな瞳。髪も肌も極上に綺麗で、着ているものも上質のものだとすぐに分かる。
「ああ、そっか。私がここにいて驚いたよね。松原麻子っていいます。本当は大岡さんがいる日に来る予定だったんだけど、私の都合が合わなくて」
ああ、とか、はいとしか応えられない富田に気を悪くすることもなく、彼女の話は続いた。事務所を見せる約束をしていたのだろうか。大岡の城なのだから、できたばかりの恋人に見せたくなる気持ちは分かる。だが休日に鍵を預けて無防備に事務所内に入れてしまうというのが彼らしくなくて、そのことに傷ついてしまう。富田にスペアキーを預けるとき、「誰にでも預ける訳じゃない。これは聡太を信用しているからだよ」と言ってくれた。それなのに彼女にはあっさり鍵を渡している。一人で事務所内を動き回らせて、書類の紛失でもあったらどうするのだ。そういうことに誰よりも気を遣わなければならない職業なのに、そんな当たり前の注意点すらどうでもよくなるほど、彼は目の前の彼女に夢中なのか。考えれば止まらなくなって、呼吸まで苦しくなる。
「そうだ。大岡さんと行ったレストランはあなたが予約してくれていたんでしょう?」
「……レストラン?」
「そう。いつもセンスのいいところを選んでくれるなって、ありがたく思っていたの。でも大岡さんも素直じゃないわよね。最近になって漸く……」
「すみません。急ぐので」
それ以上聞いていられなくて、遮るように頭を下げて彼女から離れてしまった。階段を駆け下りて、一刻も早くビルから離れたくて必死で走る。何年振りか分からないほど長く走って、駅に戻ったときには肩で息をしていた。
やはり間違いない。松原が大岡の想い人で、最近恋が成就した相手。一夜の相手のために用意したレストランに何故彼女が行っていたのかは謎だが、それも些細なことだ。大岡が以前富田が調べたレストランを気に入って、本命の彼女を連れていったのかもしれない。二人ならさぞ絵になるだろう。電車が一本到着したのか、自動改札機が三つしかない出口に人が押し寄せて、邪魔にならないように一度改札から離れてしまう。
「俺のことまで話さなくていいのに」
自動券売機の傍の壁に身体を寄せたところで、ぽつりと零れた。
恋が成就した相手に、事務所の事務員の話までしなくてもいいではないか。ボスのためにレストランやホテルを探すような事務員だ。仕事上の片腕になれるような存在ではない。大岡に限って人を馬鹿にするようなことはないだろうが、それでも、恋人と富田のことをネタにしていたかと思えば、自分が惨めで仕方なくなる。
「どうして自分に気があるなんて思ったんだろう」
もう誰の話が嘘か考えるのも面倒になって、券売機の音が響く壁の傍で立ち尽くしていた。鞄の他に抱えている辞書の包みがやけに重くて、何故こんなものを引き受けてしまったのだろうと後悔した。