駆け引きトライアングル

 話はごく単純だ。実果子は学生時代から長谷幹矢が好きだった。だが彼は遊び人の自由人で、彼女の美貌と知性を以てしても特別な存在にはなれない。会社員時代から起業を考えていたような彼女だから、彼にお金は望んではいない。長期戦で行こう。何年掛かっても、自分が最後の女性になってみせる。そう覚悟した彼女に近づいたのが三田村陽という、長谷の友人の男性だった。
 幸せにする。生涯護る。子どもを持って広い家で穏やかに暮らそう。実果子が好きな猫を飼ってもいい。そんな生活、あいつとじゃできないでしょう? そう言って説得して、彼女も心を動かしていく。起業したってお金があったって、その他にプライベートの幸せを望むのはおかしなことではない。この人となら穏やかに暮らしていけるのではないかと思ったのだ。
 だが実果子が三田村を選ぶ直前で、長谷が気紛れの行動を起こした。お前が好きなのは俺だろう? そう言って彼のものになるのを封じて、勢いのまま籍まで入れてしまった。友人に取られるのが嫌なだけで、別に彼女が欲しい訳ではなかった。だが結婚してしまった以上、体裁を守ることには用意周到。病気が見つかってどうやら子どもはできないらしい。そう言って実果子に子どもを諦めさせたのは、単に自分が子ども嫌いだったから。マンション暮らしに落ち着いたのは、一軒家の管理など端からする気がなかったから。気が向いたときに気に入った相手と遊ぶ。証拠を残すようなへまはしないし、妻の立場をどうこうするつもりはないから上出来だろう? あの物分かりのいい穏やかな顔の裏で、それが長谷幹矢の本性だった。
 もちろんそんな夫婦はいくらでもいるし、彼を選んだのも離婚せずにきたのも彼女自身だ。仕事もある。騒ぎ立てることはしない。そう思ってやってきたが、半年前の同窓会で意外な再会をしてしまう。それまで一度も同窓会に来たことのなかった三田村が現れた。そして実果子などとっくに過去の人になった彼の隣には、幸せそうに笑う妻の姿があった。それは三田村が実果子に夢中だった頃から、一途に彼を想い続けてきた女性。そういうことだ。
「三田村さんに取られるのが癪だった。それだけで実果子さんの人生を惑わせてしまったんですよね。選んだのは彼女ですけど、気持ちのいいものではありませんね」
「そうだね。きっと他人の前では反射的にいい人を演じてしまえるタイプなんだろうけど。大事にするつもりがないなら、結婚なんてしなければよかったのにとは思ってしまうね」
 でも、と前を向いた彼が表情を正す。
「弁護士としての仕事は変わらない。実果子さんの慰謝料請求を一般的な額まで下げてもらって、トラブルなく離婚話を進めること。今日の感じだと、外面のいい旦那さんの本性を第三者の前で暴くという目的が達せられて、少し落ち着いたみたいだけど」
 それでも、今日の面談でも五千万は譲れないと言っているのだ。慰謝料なんて多くて数百万だと分かっている筈なのに、騒げるだけ騒がないと気が済まないというような印象を受けてしまう。過去はもう取り戻せない。きっとそれが哀しくてやるせないのだろう。今はもう、長谷実果子に怖いという印象は全くない。あるのは哀しくて見ていられないという思いと、どうすれば気持ちを楽にしてあげられるのだろうという思いだけ。
「ついてきてくれてありがとう。彼女、聡太にブログに辿り着いてもらえたことが実は嬉しかったみたいで」
「いいえ」
 些細なことだから微笑んで首を振る。自分で言えばいいのに、怒ったり哀しんだりしている理由を誰かに見つけてほしいと思う気持ちは、なんとなく分かった。だがそれでも彼女は救われないから、どうしたらいいのだろう。
「疲れた?」
「まさか。勇人さんより若いんですよ」
 軽口で返しながら、本音は心が少し疲れていた。実果子の上手くいかなかった人生が、富田のこれからを暗示しているようで憂鬱になる。富田も彼女と同じ、叶わない恋に縋っているようなものだから。
 彼女の後悔を反面教師に、大岡のことは諦めて煌を受け入れればいいのかといえば、もちろんそんな単純な話ではない。そういうことではなく、上手くいかない恋愛に人生まで引き摺られて、これから先何年も生きていくことになってもいいのかと、今更なことを悩んでしまう。実果子と同じように、あのときああしておけばよかったと悩む人生にならないだろうか。何も言わずに大岡と戸倉と三人で現状維持。それがベストだと思って過ごしてきた自分は、結局家政科に行きたいと言い直せなかった頃から何も成長していないのではないか。でも、それならどうしたらいい?
「戸倉くんに長く留守番させてしまったね」
 彼がなんの拘りもなくその名前を口にするのに、性懲りもなく苦しくなった。付き合おうと言われたことは伝えてあるのに、彼はそんなこととっくに忘れている。いらない情報は切り捨てる。そうしないとやっていけない職業だと分かっている。それでも発作のように苦しくなるのはどうしようもない。
 もう一度彼に好きだとか付き合おうと言われたら、受け入れてみればいいのだろうか。彼から視線を外したところでふと思った。あの飄々とした男といれば、この鈍痛みたいな気持ちからは逃れられる。だが考えたのは数秒で、すぐにそんな自分に笑いたくなった。犠牲者を増やすだけだ。煌まで巻き込んでどうすると、一応自分らしいきっちりとした思考が戻ってくる。
 だがそれならどうすればいのだろう。大岡が何も聞いてこないのをいいことに、通り雨で濡れたグレーの道を眺めながら堂々巡りが続いてしまった。
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