駆け引きトライアングル
戦闘モード後の大岡は、電池が切れたように眠ってしまうだけでなく、記憶を飛ばしてしまうことがあった。富田だけが縛られて、彼はすっかり忘れてしまっている記憶。
十ヵ月前、大きな医療過誤裁判の直後だった。脳腫瘍の手術で患者に説明なく若い医師に交代して、その医師が血の流れを止めておくクリップ止めを二度ミスした。その結果重い後遺症が残ってしまったというものだ。
助手も経験を積んだ医師だと聞いており、研修医を終えたばかりの医師が手を出すなど聞いていない。それが被害者家族の主張。だが病院側は「クリップ止めは補助行為であり、誰がやっても危険性は変わらない。今回は不幸な事故で、こちらの落ち度ではない」とやり返したのだ。院内で起こった事故だから見舞金として百万を払う。そんな馬鹿げた金額を提示してきた病院相手に大岡は闘った。病院には顧問弁護士が三人もいて、苦しい戦いだった。病院関係者の妨害なのだろうが、途中で『勝てる筈もない裁判で名を上げようとする売名弁護士』という週刊誌の記事まで出たが、それでも大岡は勝った。裏話をすれば、裁判まで徹底的に弱い弁護士を演じて、相手の油断を誘ったのだ。
大岡は法学部に入る前に医学部も考えたことがあるという。弁護士になると決めたあとも趣味で医学の記事を読み漁って、現役の医師が驚くほどの知識を持っていた。その事実を三人で徹底的に隠した。着手金が安いだけが取り柄の三流弁護士。裁判が始まる前日までその設定を広めて、始まった途端にひっくり返したのだ。結果、相手が控訴できないほど叩きのめすことができた。直後の記者会見を終えて事務所に戻ってきたとき、彼はまだ戦闘モードの最中だった。
「勇人さん。もう肩の力を抜いて大丈夫ですよ」
富田のその言葉で、ふっと糸が切れたようにソファーに倒れて、そのまま眠ってしまった。
遅い時間だったから、既に戸倉は帰宅していた。毛布を掛けてやって、ただ眠る彼を見つめる。ここには弁論の相談ができる弁護士はいない。だが誰にも負けない味方の事務員なら二人もいる。それを頭の片隅で覚えていてくれればいい。毛布の上から身体を寄せる。だが呼吸に合わせて上下する彼を感じていれば、物足りなくなって、また彼を見つめる体勢に戻ってしまう。
その魅惑的な顔の作りに惹かれて、つい手を伸ばしてしまった。額から髪を梳くように撫でて、それでも起きない綺麗な顔を見つめ続ける。脳裡に昔美術館で見た女神像が浮かんだ。悩む青年に慈悲のキスをする構図がとても美しかった。富田は女神ではないが、目の前の彼を癒してやりたいという気持ちは負けていない。想いが盛り上がって、つい額に唇を寄せてしまう。
「……聡太」
「……!!」
起きないと思ったのに、そこで彼が目覚めてしまった。
「あの、えっと、これはその」
とにかく言い訳するしかない。
「特に意味はないというか」
「そう」
慌てる富田と違って、ソファーで身体を起こす彼はどこまでも静かだ。
「じゃあ、俺はそろそろ」
「聡太」
逃げようとした肩に腕が回って、気づいたときには抱き寄せられていた。
「勇人さ……」
そのまま当たり前のように唇を奪われる。たった一瞬。どうしてと考えるより先に離れていく。
「僕のは、意味がなくはないから」
宣言みたいな言い方をしたかと思うと、彼はまたソファーに横になってしまった。すぐに深い眠りに戻ってしまう。
「意味がなくはないって」
言うだけ言って眠られてしまって、どうしていいか分からなかった。戦闘モードの後遺症のようなもので、気が昂っていただけだ。そう思おうとするのに、心のどこかで期待していて、彼の傍を離れられない。もう一度目を覚ましてくれと、このまま眠っていてくれを交互に願いながら、ずっと彼を見つめていた。その捨てきれない期待は、一時間後にあっさり目覚めて、普段と変わらない様子でタクシーで家まで送ってくれた彼に、見事に打ち砕かれてしまったのだけれど。
「──大丈夫、聡太?」
タクシーの窓の外を眺めながら過去に浸っていて、大岡の声に現実に引き戻された。
「大丈夫です。すみません、ぼんやりして」
うっかりおかしなことを口走らなかっただろうか。そんな不安もあって詫びるが、彼からは穏やかな微笑みが返ってくるだけだ。
「なんというか、後味がよくない話だったね」
仕事の話に戻してくれた彼に、ただ頷いて返すことしかできなかった。
長谷の店の事務所まで行って、彼女と話をしてきた帰り道だ。富田もついていくことになったのは、彼女からそう指定があったから。富田が以前勧められたラインの友達登録が、期待以上に役立ってしまったのだ。
何気なくお店のホームページに飛んで眺めていたら、長谷のブログに辿り着いた。一応パスワードはあったが、友達登録するような客ならすぐに分かるパスワードで、簡単に彼女が綴ったものが読めてしまった。書かれていたのは半年前の同窓会の様子。再会した人間と、そこで抱えることになった後悔。そこから大岡の調査もあって、彼女が夫を苦しめようと意地になっている理由が分かってしまった。
十ヵ月前、大きな医療過誤裁判の直後だった。脳腫瘍の手術で患者に説明なく若い医師に交代して、その医師が血の流れを止めておくクリップ止めを二度ミスした。その結果重い後遺症が残ってしまったというものだ。
助手も経験を積んだ医師だと聞いており、研修医を終えたばかりの医師が手を出すなど聞いていない。それが被害者家族の主張。だが病院側は「クリップ止めは補助行為であり、誰がやっても危険性は変わらない。今回は不幸な事故で、こちらの落ち度ではない」とやり返したのだ。院内で起こった事故だから見舞金として百万を払う。そんな馬鹿げた金額を提示してきた病院相手に大岡は闘った。病院には顧問弁護士が三人もいて、苦しい戦いだった。病院関係者の妨害なのだろうが、途中で『勝てる筈もない裁判で名を上げようとする売名弁護士』という週刊誌の記事まで出たが、それでも大岡は勝った。裏話をすれば、裁判まで徹底的に弱い弁護士を演じて、相手の油断を誘ったのだ。
大岡は法学部に入る前に医学部も考えたことがあるという。弁護士になると決めたあとも趣味で医学の記事を読み漁って、現役の医師が驚くほどの知識を持っていた。その事実を三人で徹底的に隠した。着手金が安いだけが取り柄の三流弁護士。裁判が始まる前日までその設定を広めて、始まった途端にひっくり返したのだ。結果、相手が控訴できないほど叩きのめすことができた。直後の記者会見を終えて事務所に戻ってきたとき、彼はまだ戦闘モードの最中だった。
「勇人さん。もう肩の力を抜いて大丈夫ですよ」
富田のその言葉で、ふっと糸が切れたようにソファーに倒れて、そのまま眠ってしまった。
遅い時間だったから、既に戸倉は帰宅していた。毛布を掛けてやって、ただ眠る彼を見つめる。ここには弁論の相談ができる弁護士はいない。だが誰にも負けない味方の事務員なら二人もいる。それを頭の片隅で覚えていてくれればいい。毛布の上から身体を寄せる。だが呼吸に合わせて上下する彼を感じていれば、物足りなくなって、また彼を見つめる体勢に戻ってしまう。
その魅惑的な顔の作りに惹かれて、つい手を伸ばしてしまった。額から髪を梳くように撫でて、それでも起きない綺麗な顔を見つめ続ける。脳裡に昔美術館で見た女神像が浮かんだ。悩む青年に慈悲のキスをする構図がとても美しかった。富田は女神ではないが、目の前の彼を癒してやりたいという気持ちは負けていない。想いが盛り上がって、つい額に唇を寄せてしまう。
「……聡太」
「……!!」
起きないと思ったのに、そこで彼が目覚めてしまった。
「あの、えっと、これはその」
とにかく言い訳するしかない。
「特に意味はないというか」
「そう」
慌てる富田と違って、ソファーで身体を起こす彼はどこまでも静かだ。
「じゃあ、俺はそろそろ」
「聡太」
逃げようとした肩に腕が回って、気づいたときには抱き寄せられていた。
「勇人さ……」
そのまま当たり前のように唇を奪われる。たった一瞬。どうしてと考えるより先に離れていく。
「僕のは、意味がなくはないから」
宣言みたいな言い方をしたかと思うと、彼はまたソファーに横になってしまった。すぐに深い眠りに戻ってしまう。
「意味がなくはないって」
言うだけ言って眠られてしまって、どうしていいか分からなかった。戦闘モードの後遺症のようなもので、気が昂っていただけだ。そう思おうとするのに、心のどこかで期待していて、彼の傍を離れられない。もう一度目を覚ましてくれと、このまま眠っていてくれを交互に願いながら、ずっと彼を見つめていた。その捨てきれない期待は、一時間後にあっさり目覚めて、普段と変わらない様子でタクシーで家まで送ってくれた彼に、見事に打ち砕かれてしまったのだけれど。
「──大丈夫、聡太?」
タクシーの窓の外を眺めながら過去に浸っていて、大岡の声に現実に引き戻された。
「大丈夫です。すみません、ぼんやりして」
うっかりおかしなことを口走らなかっただろうか。そんな不安もあって詫びるが、彼からは穏やかな微笑みが返ってくるだけだ。
「なんというか、後味がよくない話だったね」
仕事の話に戻してくれた彼に、ただ頷いて返すことしかできなかった。
長谷の店の事務所まで行って、彼女と話をしてきた帰り道だ。富田もついていくことになったのは、彼女からそう指定があったから。富田が以前勧められたラインの友達登録が、期待以上に役立ってしまったのだ。
何気なくお店のホームページに飛んで眺めていたら、長谷のブログに辿り着いた。一応パスワードはあったが、友達登録するような客ならすぐに分かるパスワードで、簡単に彼女が綴ったものが読めてしまった。書かれていたのは半年前の同窓会の様子。再会した人間と、そこで抱えることになった後悔。そこから大岡の調査もあって、彼女が夫を苦しめようと意地になっている理由が分かってしまった。