駆け引きトライアングル
これは女性がお気に召さなかったパターンか。どうせ料金を払うなら朝まで快適な部屋で過ごせばいいのに、ホテルでの一人寝は彼のポリシーに反するのだろうか。
「……わざわざ呼び出すなよ」
そう零しながら、配車アプリを使って最短時間で彼のもとへ向かう。せっかく予約したホテルが無駄になってしまうが、そこに、今回も特定の恋人はできなかったという安堵の気持ちも隠れているのだからタチが悪い。
タクシーで傍まで行ってもらえば、ホテルの敷地を出たところにある石垣に背を寄せて彼が立っていた。そんな姿でもサマになるのだからいい男は狡い。
「お疲れ」
気づいた彼が軽く手を上げて声を掛けてくれた。
「勇人さんに呼び出されなければ、疲れを癒している時間だったんですよ」
雇い主である彼を下の名前で呼ぶのは、大岡という名字は呼びにくいだろうと、彼が指定してくれたからだ。顧客の前では先生と呼んでいるが、その他は堂々と勇人さんと呼べることが密かに嬉しい。戸倉も同じ呼び方だから、彼にとってたいした意味はないと分かっているのだけれど。
「ごめんって。時間外手当はちゃんと出すから」
「それはいりません」
給料なら富田も戸倉も個人事務所勤めとは思えないほど貰っている。それに、本音は彼の世話は嫌ではないのだ。寧ろ役得かもしれないと思う気持ちは、隠すのが正解だと分かっているから隠している。
「運転手さんの迷惑になるから、早く乗ってしまいましょう?」
「そうだね」
全く酔っていない様子の彼が、タクシーに向かってすたすたと歩いていく。
「お先にどうぞ、お姫様」
酔ってもいないのに、何故そんなことが言えてしまうのだろう。
「お姫様なら終業後にこんな風に呼び出したりしないでしょう?」
ドアを開けて待っていてくれる運転手に悪いから乗ってしまうが、一応冷たく返しておく。本音は複雑だが、男性だからお姫様と言う言葉に喜んではいけないことくらい知っているのだ。
「つれないね」
やれやれという様子で、隣に乗り込んだ彼が肩を竦めてみせる。そんな仕草が格好よく見えてしまう日本人なんて、どれだけレアな存在なのだろう。富田より十センチ以上高い身長。独特の男の色気を放つ眼。彼に出会って、初めて雌雄眼という言葉を知った。その眼の上のしっかりとした眉。仕事中はきっちり上げている硬めの黒髪。上質のスーツ。全部が完璧で、寧ろ一夜の遊びの手配をしてくれと言われることで、ほっと安堵させられる部分もあったりする。
「全然酔っていないし、一人で帰れたじゃないですか」
運転手に淀みなく住所を告げた彼に言ってやれば、走り出した車で妖しげな微笑みを披露された。普段左の方が細いのを更に細められて、アンバランスになる眼が堪らなく魅力的で困ってしまう。
「分かっていないね。僕は弁護士なんだよ? 一人で帰って万が一トラブルでも起こしたら、信用を失って仕事が全部なくなるかもしれない。そうなれば従業員も困ってしまう。聡太はいいとして、戸倉さんを困らせてもいいの?」
トラブルなど起こす人間ではないだろうと思うが、滅多にお酒を飲まない富田には断言できない。それを分かって言っている。ついでに、戸倉の名前を出すのは卑怯というものだ。
「もうちゃんと女の人とくっついて、こんな風に新規の女性と会い続けるのをやめればいいのに」
「酷い言い方」
弁護士の彼に言葉で勝てる筈がないから自棄になって言ってみるが、それにも余裕の軽口が返されるだけだ。
「僕に特定の人ができたら寂しいくせに」
「寂しい? どうして俺が」
内心どきりとしながら平静を装う。
「分かっているくせに。今日の聡太はつれないね」
「……実は酔っているみたいですね」
ため息を吐くフリをしながら、密かに速くなる鼓動に困らせられていた。本当は富田の複雑な気持ちを本人以上に知っているのではないかと思うが、それを聞ける筈もないから現状維持だ。女性が好きで、今日みたいにレストランやホテルの予約を頼んでくる彼なのだ。富田の気持ちは面倒事に分類されてしまう。それは避けたい。
「一人じゃ部屋まで辿り着けないから送って」
マンション前でそう言われるのもいつものことで、もう反論する気もなく二人でタクシーを降りた。辿り着けないと言うが、彼のマンションは災害対策の低層階仕様で、一つ一つの部屋も広いから分からなくなる筈がないのだ。富田を部屋に入れたいのは別の理由。
「……相変わらず何もない部屋ですね」
迎え入れられた室内で目にするのは驚くほどがらんとした空間だ。大岡は物を多く持つのが嫌いで、必要最小限以下の家具や日用品で暮らしている。それで困ることがあればこうして富田を呼び出すのだ。
「今日は一体なんですか?」
「部屋着が破れた」
ロボット掃除機のお陰で綺麗にはしてあるが、リビングにはローテーブルと木製の座椅子が二つ置いてあるだけだ。座椅子に乗っている座布団は富田がプレゼントしたもので、その前は硬い椅子の上にじかに座っていたというのだから呆れてしまう。
「これ」
なんの変哲もない白のロングTシャツを差し出されて息が零れる。特に高級志向でないところには好感が持てるが、そんな部屋着代わりのTシャツなら、他にいくらでもあるだろうにと思ってしまう。
「ああ、ここですね」
手にして見れば、左の肩の部分から肘近くまで裂けていた。
「どうしたらこんな風に破けるんです?」
「さぁ、覚えていない」
記憶力抜群の弁護士が、プライベートではこんなことを言うから放っておけない。
「縫ってしまいますから、シャワーでも浴びていてください」
「聡太に仕事をさせておいてそんな勝手はできないよ。ここで見ている」
「ではどうぞお好きなように」
「……わざわざ呼び出すなよ」
そう零しながら、配車アプリを使って最短時間で彼のもとへ向かう。せっかく予約したホテルが無駄になってしまうが、そこに、今回も特定の恋人はできなかったという安堵の気持ちも隠れているのだからタチが悪い。
タクシーで傍まで行ってもらえば、ホテルの敷地を出たところにある石垣に背を寄せて彼が立っていた。そんな姿でもサマになるのだからいい男は狡い。
「お疲れ」
気づいた彼が軽く手を上げて声を掛けてくれた。
「勇人さんに呼び出されなければ、疲れを癒している時間だったんですよ」
雇い主である彼を下の名前で呼ぶのは、大岡という名字は呼びにくいだろうと、彼が指定してくれたからだ。顧客の前では先生と呼んでいるが、その他は堂々と勇人さんと呼べることが密かに嬉しい。戸倉も同じ呼び方だから、彼にとってたいした意味はないと分かっているのだけれど。
「ごめんって。時間外手当はちゃんと出すから」
「それはいりません」
給料なら富田も戸倉も個人事務所勤めとは思えないほど貰っている。それに、本音は彼の世話は嫌ではないのだ。寧ろ役得かもしれないと思う気持ちは、隠すのが正解だと分かっているから隠している。
「運転手さんの迷惑になるから、早く乗ってしまいましょう?」
「そうだね」
全く酔っていない様子の彼が、タクシーに向かってすたすたと歩いていく。
「お先にどうぞ、お姫様」
酔ってもいないのに、何故そんなことが言えてしまうのだろう。
「お姫様なら終業後にこんな風に呼び出したりしないでしょう?」
ドアを開けて待っていてくれる運転手に悪いから乗ってしまうが、一応冷たく返しておく。本音は複雑だが、男性だからお姫様と言う言葉に喜んではいけないことくらい知っているのだ。
「つれないね」
やれやれという様子で、隣に乗り込んだ彼が肩を竦めてみせる。そんな仕草が格好よく見えてしまう日本人なんて、どれだけレアな存在なのだろう。富田より十センチ以上高い身長。独特の男の色気を放つ眼。彼に出会って、初めて雌雄眼という言葉を知った。その眼の上のしっかりとした眉。仕事中はきっちり上げている硬めの黒髪。上質のスーツ。全部が完璧で、寧ろ一夜の遊びの手配をしてくれと言われることで、ほっと安堵させられる部分もあったりする。
「全然酔っていないし、一人で帰れたじゃないですか」
運転手に淀みなく住所を告げた彼に言ってやれば、走り出した車で妖しげな微笑みを披露された。普段左の方が細いのを更に細められて、アンバランスになる眼が堪らなく魅力的で困ってしまう。
「分かっていないね。僕は弁護士なんだよ? 一人で帰って万が一トラブルでも起こしたら、信用を失って仕事が全部なくなるかもしれない。そうなれば従業員も困ってしまう。聡太はいいとして、戸倉さんを困らせてもいいの?」
トラブルなど起こす人間ではないだろうと思うが、滅多にお酒を飲まない富田には断言できない。それを分かって言っている。ついでに、戸倉の名前を出すのは卑怯というものだ。
「もうちゃんと女の人とくっついて、こんな風に新規の女性と会い続けるのをやめればいいのに」
「酷い言い方」
弁護士の彼に言葉で勝てる筈がないから自棄になって言ってみるが、それにも余裕の軽口が返されるだけだ。
「僕に特定の人ができたら寂しいくせに」
「寂しい? どうして俺が」
内心どきりとしながら平静を装う。
「分かっているくせに。今日の聡太はつれないね」
「……実は酔っているみたいですね」
ため息を吐くフリをしながら、密かに速くなる鼓動に困らせられていた。本当は富田の複雑な気持ちを本人以上に知っているのではないかと思うが、それを聞ける筈もないから現状維持だ。女性が好きで、今日みたいにレストランやホテルの予約を頼んでくる彼なのだ。富田の気持ちは面倒事に分類されてしまう。それは避けたい。
「一人じゃ部屋まで辿り着けないから送って」
マンション前でそう言われるのもいつものことで、もう反論する気もなく二人でタクシーを降りた。辿り着けないと言うが、彼のマンションは災害対策の低層階仕様で、一つ一つの部屋も広いから分からなくなる筈がないのだ。富田を部屋に入れたいのは別の理由。
「……相変わらず何もない部屋ですね」
迎え入れられた室内で目にするのは驚くほどがらんとした空間だ。大岡は物を多く持つのが嫌いで、必要最小限以下の家具や日用品で暮らしている。それで困ることがあればこうして富田を呼び出すのだ。
「今日は一体なんですか?」
「部屋着が破れた」
ロボット掃除機のお陰で綺麗にはしてあるが、リビングにはローテーブルと木製の座椅子が二つ置いてあるだけだ。座椅子に乗っている座布団は富田がプレゼントしたもので、その前は硬い椅子の上にじかに座っていたというのだから呆れてしまう。
「これ」
なんの変哲もない白のロングTシャツを差し出されて息が零れる。特に高級志向でないところには好感が持てるが、そんな部屋着代わりのTシャツなら、他にいくらでもあるだろうにと思ってしまう。
「ああ、ここですね」
手にして見れば、左の肩の部分から肘近くまで裂けていた。
「どうしたらこんな風に破けるんです?」
「さぁ、覚えていない」
記憶力抜群の弁護士が、プライベートではこんなことを言うから放っておけない。
「縫ってしまいますから、シャワーでも浴びていてください」
「聡太に仕事をさせておいてそんな勝手はできないよ。ここで見ている」
「ではどうぞお好きなように」