駆け引きトライアングル

 彼が聞いたことがないと言うなら間違っていない。
「勇人さんが、料理ができるなんて凄い、多才だねって言ってくれたんですよ」
「聡太が初めてここに来た日のことかな?」
「正解」
 記憶力抜群の男だからたいしたことではないと分かっていながら、それでも覚えていてくれたことが嬉しかった。
「あのとき、勇人さんは買いに行くくらいなら食べなくてもいいって感じの人で」
「聡太がスーパーまで行って料理をしてくれたね。鯖の照り焼きで、魚なんて久しぶりに食べたって感動して」
「メニューまでよく覚えていますね」
 本当は富田だって覚えている。みりんはおろか醤油すらなかったから、ミニサイズの調味料を一式買ってきて料理したのだ。
「そのとき褒められたのが嬉しくて、人前で料理してもいいんだって自信を持てるようになったんです」
「それまでは違ったの?」
「言っちゃいけないことだって思っていて」
「どうして?」
「……別に面白い話じゃないんですけど」
 それは富田の高校時代まで遡る。
 高校二年、三年の担任は明るくて屈託のないタイプの生物教師だった。三年の夏に突然進路を変える生徒にも、芸能人になると言い出すような生徒にも、みな真摯に向き合うような生徒想いの男性教師。今思えば、彼に対して淡い恋心があったのかもしれない。そんな彼との夏休み前の面談。歴史が古いことだけが自慢の進学校で、教室にエアコンなんて設備はない校舎だった。窓を開ければ逆に暑さが増すような教室で、小さな机を挟んで向き合った。
「富田は成績もいいし、普通に第一志望に受かるだろうな。でも他の奴らみたいにぱーっとした希望はないのか? T大を受けたいとか、実は美大を受けたいとか」
 T大なんて受かる訳がないし、富田は絵になど興味はない。これまで目指してきた公立大の理学部でいいと言おうとして、けれどそのとき何故か言ってみたくなった。好きなものがある。この男ならどう言ってくれるのかを知りたい。
「共学の家政科に行きたいです」
「……」
 その一瞬の間で察してしまった。
「なんだ、富田もそんな冗談言うんだな」
 笑って返されれば心が冷える。彼は富田が本気だと気づいている。だがそう振る舞われれば、富田にはどうしようもなかった。彼が理解してくれないなら、富田を理解する人間などどこにもいないだろうと思えた。人柄のいい彼に分からないフリをさせてしまうほど、自分は異常なのだと知った瞬間。
「世の中が変わってきたから、今ならなんてことない話かもしれないけどね」
 大岡の声が、負の感情に引き摺られそうになっていた富田を掬い上げてくれた。クールに返しながら、その声がいつもより少し優しい。弁護士が依頼人の気持ちに共感しすぎてはいけない。依頼人が真実を語っているとは限らないし、気持ちを持っていかれすぎれば仕事ができなくなるから。いつか彼がそう言った。けれど彼は富田に優しい。依頼人でないからと言われればそれまでだが、富田の心の乱れに気づけば寄り添ってくれようとする。だからずっと淡い期待を捨てられない。富田にとっては逆に厄介な態度だ。
「聡太」
 呼ばれて顔を上げれば、彼が優しく微笑んでくれた。彫刻みたいに整った顔が時々ふんわりとした表情になる。多分仕事では見せない表情を目にするたびに、その特権に浸ってしまう。それで充分だと思ってきた。だが彼の部屋で家事をするたびに、色々な顔を独り占めして、毎日二人で食事ができたらどんなにいいだろうと夢を見てしまう。
「そろそろ片付けて帰ります」
 余計な気持ちが零れてしまわないうちに、この部屋を出ようと思った。
「聡太」
 キッチンに向かおうとして呼び止められる。
「富田聡太は綺麗で優しくて仕事ができて、大岡勇人の戦闘モードにも冷静に対応することのできる男性です。よって、今後も大岡総合法律事務所で働くことが望ましいと判断します」
「……弁護士モード」
 彼の方から披露してくれるのは珍しい。珍しくて嬉しいから、食器を持ってシンクに逃げてしまう。
「片付けは僕がやるよ」
「いえ、いいですよ。今日は外出ばかりで疲れたでしょう?」
 それに食器洗いという理由があれば、富田はあと十分ここにいられる。早く帰らなければと思いながら、もう少しいたいと思う。この地味な葛藤が、秘密の恋の辛いところだと思う。
「戸倉くんは、家事も一通りできるんでしょう?」
「戸倉くん?」
 何故今彼の名前が出てくるのだろう。
「料理ができるから、他も色々できると思いますけど」
「そう」
「あ、俺が」
 家事をやらせるために富田を部屋に呼んでいるような彼が、一体どうしたというのだ。
「何かありました?」
 シンクの前を陣取って食器を洗い始めれば、彼が小さく首を振った。
「戸倉さんから頼まれていたことがあってね」
「どんな?」
「彼に恋人の女性を見つけてやってくれって」
 思わず水を流したまま彼の顔を見上げてしまう。
「恋人?」
「そう。好きな女性でもできれば、しっかり働くようになるんじゃないかってね」
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