駆け引きトライアングル

 彼の気遣いだということは伝わった。このところ二人の間に合った空気がおかしかったから、富田が明日も気にせず仕事に来られるように。本来なら自分の仕事のことだけを考えていればいい立場の彼が、代わりの利く事務員のことを思ってくれる。そんなところが好きだと思う。
「勇人さんが嫌でなければ、家に行かせてください。料理しますから一緒に食べましょう?」
 彼に恋人ができればできなくなってしまうことだから、富田にしては強気にねだってしまった。
「いいけど、聡太が疲れない?」
「平気です」
「それならそうしよう」
 午後の間中悩んでいたことが一瞬で消えて、そわそわと彼の戻りを待つ。もうビルが見える位置にいたのか、すぐに上がってきた彼と顔を合わせて、何事もなかったかのように、持ち出していた書類を戸棚にしまってしまう。
「今日はビル前からタクシーで帰ってしまおう」
「はい。あ、でもスーパーに寄りたい」
「了解。もう僕のカードを預けるから、好きに買いものして」
「食料品が買えないほど困っていませんよ」
 言い合いながら梅雨明けの夜の道を歩いて、すぐにやってきたタクシーに手を上げる。今はこのふわふわとした時間に身を任せていようと思った。現実を直視しない夜があってもいい。そうだ。今日を思い出の一夜にして、明日からは徹底的に彼の恋に協力する人間になろうか。そう思ううちに、車はあっさりと彼の自宅近くに到着してしまう。今日は彼も口数が少なかったと気づいたのは降りてからだ。外回りで疲れたのだろうか。それならやはり外食にしなくて正解だった。富田にしては高速で色々なことを考えながら、スーパーで買い物をして彼の部屋にお邪魔することになる。
「相変わらず何もない部屋ですね」
 今夜もそう言えたことに密かに安堵した。彼に特別な人ができれば、この部屋の中も変わっていく。生活必需品でないものが増えて、相手の趣味に染まって、富田が入ることのできない部屋が出来上がる。いや、その前にもっと広いところに引越しという流れになるだろうか。
「どうかした?」
「いえ」
 余計なことを考える前に動いてしまおうと思った。彼の部屋の少ない調理器具で、大根の煮物とゴボウのきんぴらを作ってみる。買ってきたパックのご飯と併せて、そこそこ見られる夕食になった。この部屋には炊飯器というものが存在しない。
「凄い。一瞬で目の前に料理が現れる」
 大岡がテレビの正面、富田がその斜め前に座ったところで、彼がローテーブルに並んだ料理を眺めて言った。
「そんなことある訳ないでしょう? ここでばたばたと料理していたんですよ。多分、戸倉さんの手際には敵わないと思うし」
「戸倉さんって、幸子さんの方?」
 意外な質問に、答えるのに時間が掛かってしまった。
「ごめん。僕が深入りすることじゃないんだけど」
「いえ。構いません。もちろん幸子さんの方ですし」
「そっか」
「食べましょうか。せっかく作ったし」
 そう言って、富田の方が先に食べ始めてしまった。この部屋にはいつからか二人分の茶碗と箸が置かれるようになった。座布団と違って、茶碗は富田が買ったものではない。富田がここで料理をしたとき、一緒に食べられるように大岡が買っておいてくれたのだ。余分な物を持つのが嫌いな彼が富田のために買ってくれた。その事実が嬉しかった。だがそこから二人の関係が進展することはなく、想いを隠したままボスと部下の関係を続けてきた。そんな彼に本命ができたという。戸倉と三人の穏やかな日々が続いていけばいいと思ってきた。だが時は流れて、自分を取り巻く環境も変わっていく。心地いい環境にいたいと願っても、他人の変化を止める権利はない。
「戸倉くんは伯母さんに料理を仕込まれたって言っていました」
 彼の話題を避け続けるのも不自然だと思ったから、なんでもないことのように話してしまうことにした。
「戸倉さんと同じくらい上手でしたよ。この間お見舞いの帰りにお茶をご馳走したことを気にしていて、今日わざわざ俺の分までご飯を作ってきてくれていて」
「そういうことだったんだ」
 とりあえず、おかしな関係ではないと知ってもらえて一安心だ。
「ちょっと悔しいかな。僕は料理なんて全くできないから」
 箸を止めた彼が意外なことを言った。
「悔しがる必要なんてないですよ。勇人さんは弁護士だし、俺たちにできないことがいくつもできたりするでしょう?」
「うーん。よくみんな弁護士ってだけで他は全部ちゃらみたいな言い方をするんだけど、実はそうでもないんだよ。できないことがあれば自分は未熟だって思うし、聡太が分かりやすい資料を作ってくれれば、今度真似してみようと思ったりもするしね。これからも料理をする気はないけど、料理をする聡太は凄いなって思うよ」
「ありがとうございます」
 こんなところが好きだと思う。一般人から見れば途方もなく凄い仕事に就いているのに、彼は決して驕らない。
「あ、これおいしい」
 料理を褒められて、このところの微妙な距離感が消えた。嬉しくて、もう少し話していたくなる。
「俺が料理や裁縫が趣味だと隠さずに言えるようになったのは、勇人さんのお陰なんですよ。話したことありましたっけ?」
「何それ。初耳」
18/33ページ
スキ